Agent Orange buried on Okinawa, vet says
Ex-serviceman claims U.S. used, dumped Vietnam War defoliant
By JON MITCHELL
http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/nn20110813a1.html
ジョン・ミッチェル氏による『ジャパン・タイムズ』記事、翻訳してみました。
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エージェント・オレンジを沖縄で埋却、退役軍人が語る/
元兵士は米国がベトナム戦争時の枯葉剤を使用し廃棄したと主張
2011年8月13日
ジョン・ミッチェル
ジャパンタイムズへの特別寄稿
1960年代末、米軍は有害な枯葉剤「エージェント・オレンジ」の入った数十本のドラム缶を沖縄島の北谷町付近に埋めたと、米退役軍人がジャパン・タイムズ社に語った。
元兵士のこの主張よりわずか数日前、松本剛明外相は、1945-72年までの27年間の占領期に沖縄で使用した化学物質について明らかにするよう米国防省に対して求めていると語った。米政府は、沖縄におけるエージェント・オレンジの使用については記録がないと繰り返し主張し続けているのである。
元兵士の証言は、沖縄における関心を大いに高めるだろう。エージェント・オレンジは発がん性のダイオキシンを高濃度に含有し、数十年は土壌や水に残留する可能性がある。元兵士がドラム缶が埋められたと主張する場所は、人気の観光地や住宅地域に近い。
匿名での報道を求めているこの61歳の元兵士は、1968年から70年に沖縄に駐留し、米陸軍補給地区でフォークリフトを操作していた。この間、彼はエージェント・オレンジを含む補給物資を那覇港へ向かうトラックに搬入する作業に従事し、積荷は那覇港からベトナムへ輸送されていた。
元米兵は、1969年に補給船が座礁した際、その引き揚げ作業に加わらなければならなかったという。
「島中から作業員が那覇港に集められた。ボートを岩礁から降ろすのに、2、3日を要した。エージェント・オレンジのドラム缶が一杯に詰まったコンテナがいくつも破損していた。55ガロン(208リットル)缶には、オレンジの縞がぐるりと描かれてあった。破損して流れ出していたものもあり、私たちはみんなそれを浴びたのです」と、彼は語った。
破損したドラム缶の除去のあと、この元兵士は、米軍がそれらを広い敷地に埋却するのを目撃したと主張している。「彼らは長い溝を掘った。150フィート(46メートル)以上はあっただろう。クレーンが複数台あって、コンテナをつり上げていた。そして、中のドラム缶をぜんぶその溝に揺すり落とした。その後、土で埋めたのです」。
別のふたり、元米兵のマイケル・ジョーンズ氏と港湾作業に従事したジェイムズ・スペンサー氏が、ジャパン・タイムズのインタビューに答えて、何千缶もの除草剤の輸送拠点として那覇港が使われていたという元米兵の主張を裏付けた。スペンサー氏はまた、1969年の引き揚げ作業で座礁船からコンテナを積み降ろすところを目撃している。ただし、コンテナの中身が何であったかははっきり判らないと語った。
しかし、証言を行った元米兵は、確信を持っている。「あれはエージェント・オレンジだった。マチナト(補給地区)で(ドラム缶を)扱ったときの臭いで判ったのだ」。
救援作業の際に枯葉剤のダイオキシンを浴びたため、この元米兵は脳卒中と塩素座瘡を含む、深刻な病状に悩まされている。米国退役軍人省(VA)は、病気を患った退役軍人の補償を担当する窓口で、エージェント・オレンジ被曝の治療費として退役兵に対し月1000ドル以上を給付する。
しかしVAは、彼がベトナムに駐留した6ヶ月の間にダイオキシンに被曝したのだと主張している。
1991年に米連邦議会を通過したエージェント・オレンジ法の下で、ベトナムに派遣された経験のあるすべての米兵は枯葉剤と接触した可能性があるとみなされ、医療給付と補償を受ける資格を得た。
だが、エージェント・オレンジは沖縄に保管されたことはないと否定しつづけるペンタゴンのせいで、これらの補償が、この島でダイオキシンに被曝したと主張する元米兵には支払われない。
証言をした元米兵は、特に、駐留米軍の再編交渉が進行中の現在、沖縄をめぐって日米関係が神経過敏になっている時期に、この問題について語ることの危険性には気付いていると話した。「この件で実名が公表されれば、私の給付金は取り上げられてしまうかもしれない」。
2002年、沖縄県政は、北谷地域で内容不明の多数のドラム缶を発見したが、これは元米兵が目撃したと主張している掘削された溝の場所に近い。北谷町役場に近い筋の人物の話によれば、ドラム缶が発見された後、那覇を拠点とする沖縄防衛局(*当時の那覇防衛施設局のこと)がすぐに押収し、これは現在の防衛省の管轄下にある。
「私は北谷町の基地問題担当に、防衛施設局からの報告書を持っているかどうか問い合わせたが、答えはノーだった。町は、いまだに内容物が何であったのか知らないし、ドラム缶がどのように処理されたのか、防衛施設局が内容物についての調査を行ったのかどうかも判らない」と、その人物は語った。
この6ヶ月間で、ジャパン・タイムズ社が集めた12名の元米兵からの直接の証言によれば、1960年代半ばから1975年にかけて、嘉手納空軍基地、普天間飛行場など沖縄の9カ所の米軍施設でエージェント・オレンジを貯蔵し、噴霧し、輸送したとのことである。
証言に名乗り出た人々のうちのひとり、61歳の元米空軍整備兵ジョー・シパラ氏は、泡瀬通信施設の周囲で雑草を除去するために、定期的に枯葉剤を噴霧したという。また、キャンプ・シュワブ所属の海兵隊員であったスコット・パートン氏は、1971年、何十というエージェント・オレンジのドラム缶を基地内で見たと証言している。ふたりの証言は、沖縄で撮影された枯葉剤のドラム缶の写真によって裏付けられている。ふたりとも現在、2型糖尿病や前立腺疾患など、枯葉剤に接したことが原因の深刻な病状にあり、シパラ氏の子どもたちには、ダイオキシン被曝で起こる奇形の症状が現れている。ところが、VAはかれらの申請を却下し続けている。これは、米国防省が、枯葉剤の沖縄での存在を認めようとしないためである。
これら12名の元米兵の説明が示すのは、ベトナム戦争時、この島でエージェント・オレンジが広範囲に使用されていたということである。枯葉剤は、北部のやんばる地域から南部は那覇港まで、大量に貯蔵され使用されていたと彼らは語っている。枯葉剤の発がん性について充分に明らかになったのは、1980年代半ばになってようやくのことであった。
沖縄の人々は、この問題に関心を持っている。エージェント・オレンジが噴霧された9カ所の基地のうちのひとつに近い小学校に勤めていたという退職教員は、最近、彼女の教え子たちに白血病で亡くなった者が多いことを説明してくれた。白血病は、ダイオキシン被曝に由来すると米国政府が認めている病状に含まれている。
名護市議の大城敬人氏は、名護にあるキャンプ・シュワブで多数のドラム缶を見たという元海兵隊員パートン氏の主張について、調査を要求した。
米軍が有害廃棄物の処理についてこのように糾弾されるのは、これが初めてのことではない。
2005年、アラスカのフォート・メインライトでは、建設業者が宅地造成予定地の地下からPCB汚染された何トンもの土を発見したことが大々的に報道された。今年の5月には、3人の退役軍人が、1978年に韓国のキャンプ・キャロルでエージェント・オレンジのドラム缶を埋却する作業をしたと主張した。ペンタゴンは現在、この主張について調査中である。
沖縄国際大学で環境法を専門とする砂川かおり氏は、エージェント・オレンジによる汚染の可能性について関心を寄せている。
「沖縄の人々は、この件について真実を知る必要がある。政府は汚染が広がっているかどうか調査を実施すべき。今も健康や環境への危険性があるのかどうか、私たちは知る必要がある」と彼女は語った。
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