ジョン・ミッチェル「エージェント・オレンジ暴露が懸案の普天間問題に影響か:有害な除草剤、沖縄で論争を呼んでいる飛行場移設予定地の基地内に貯蔵され、埋却の可能性もあると、病に苦しむ元米兵が主張」『ジャパン・タイムス』2011年10月18日。
(原文)
Jon Mitchell, "Agent Orange Revelations Raise Futenma Stakes: Toxic Defoliant Stored, Possibly Buried in Camp Slated as Relocation Site for Contentious Air Base in Okinawa, Ailing U.S. Veteran Claims," Japan Times, Oct. 18, 2011 [http://www.japantimes.co.jp/text/fl20111018zg.html].
9月26日、
名護市議会は、日本政府と米国に対してエージェント・オレンジの使用と保管(spraying and storage: 散布と貯蔵)についての調査を実施するよう要請する決議を採択した沖縄初の市町村となった。
全会一致の決議を皮切りに、その後3ヶ月に及ぶジャパン・タイムズを含むメディアの集中的な報道が、1960-70年代に12カ所以上の基地で有害除草剤が使用されたという証言を採り上げた。住民の健康被害や自然環境に与える影響の可能性に言及しながら、決議は、
1973年日米合同委員会の合意に基づいた早急な行動を要請した。合意事項には、地元の当局は「地元の防衛施設局との協力の下、米軍現地司令官に対して調査を要請することが出来る。調査の結果は、可能な限り速やかに・・・通知されることとする」と記されているのである。
この要請は、東京とワシントン双方に衝撃を与えたようだ。名護市は米海兵隊キャンプ・シュワブを擁しており、その辺野古崎とは、日米政府が、普天間飛行場の移設先として強行しようとしている場所である。現在は同じく沖縄の宜野湾市の真ん中に居座るこの飛行場をどうするか、という問題は、長らく米日関係に刺さった棘となってきた。
名護市議会の発表を後押ししたのは、59才の元米海兵隊員、1970-71年にキャンプ・シュワブに配属されたスコット・パートンの証言だった。4月の地域ニュース欄に掲載された
「沖縄におけるエージェント・オレンジの証拠」(ツァイトガイスト、4月12日)と題された記事を読んで、『ジャパン・タイムズ』紙に連絡を取ったことによって、パートンの説明に光が当てられることになった。彼からの最初の電子メールには1枚の写真が添付されていたが、そこにはゴミ焼却用のドラム缶が写っており、元は除草剤が入っていたものだとパートンは主張した。
最近の電話インタビューで、パートンは、キャンプ・シュワブで数十というエージェント・オレンジのドラム缶を目撃したことを語っている。「多くが立ち入りを禁止された大きな亜鉛メッキ加工の倉庫に貯蔵されていた。なかにはオレンジの1本線が描かれたドラム缶があった。ほかは2本のオレンジ色の線だった」。
パートンは、アメリカの作業員チームが、キャンプ・シュワブの無用な草木を、とくに用水路の周辺から片付けるために、除草剤を使ったことを説明した。
この元海兵隊員によれば、化学薬品は大量に散布され、そのため作業員は健康被害を受けた。「用水路の近くに上官の宿舎があった。散布で気分を悪くしたものが出たため、司令官は、その人たちを一時的に別の場所に移す必要があったのだ」。
パートンはまた、彼と3人の仲間の海兵隊員が、用水路を歩いたときのことを話した。「水のせいで足の皮が腐ってすぐにはげ落ちた。自分だけではなく、4人とも同じ症状だった。病室へ行ったら看護兵から、ただの水虫だと言われた。でも違うと判っていた。今でも、足は治っていないのだ」。
パートンの説明は、1972年にキャンプ・シュワブを訪問したときに葉が枯れた一帯を見たという記憶を語った元海兵隊軍曹によって裏付けられている。彼自身も現在、沖縄でのエージェント・オレンジ被曝の補償を要求しているため、氏名は公表しないでほしいという。
市議会決議の急先鋒となった大城敬人名護市議は、パートンが証言するずっと前から、彼や地元住民は、除草剤を含む危険な化学薬品の使用を疑ってきたと言う。
「何年も前に、キャンプ・シュワブには沖縄中のあちこちの米軍基地から集めたゴミを埋める場所があった。辺野古の住民から、PCB(毒性の有機化合物)の入った小さな缶が貯蔵されているという話を聞いたこともある。基地周辺の海では、モズクが生えていたが、すっかり消えてしまった。漁師たちはモズク漁をあきらめなければならなかった」。
キャンプ・シュワブは、約20キロメートル北のやんばるの森に北部訓練場(NTA)があることを考えれば、名護でエージェント・オレンジが使用されたことは驚くことではない。キャンプ・シュワブ開設の1年前の1958年に[ママ]設立された北部訓練場は、1960年代から70年代に頻繁に使用され、ヴェトナム戦争に備えるためアメリカの部隊が送り込まれた。ある米国人高官の話によれば、やんばるの森はアメリカの枯葉剤計画に好都合な試験場となった。東南アジアに似た気候に加えて、当時は沖縄全土が米軍政下にあり、ペンタゴンは、民間地域での化学兵器実験に求められるいかなる制限も回避できると考えていた。
9月6日の『沖縄タイムス』紙の一面をかざった記事でこの高官は、1960-62年の間に、北部訓練場で化学兵器が使用されたと主張している。「散布から24時間以内に葉が茶色く枯れ、4週間目にはすべて落葉した。週に一度の散布で新芽が出ないなどの効果が確認された。具体的な散布面積は覚えてない」と、平安名純代記者に話したという。
この高官の話では、これらの試験の結果は、米軍の枯葉剤作戦の技術調整の一助となり、後にヴェトナム戦争で使用されることになった。1962-72年の間に、ペンタゴンは約7600万リットルの枯葉剤をヴェトナム、ラオス、カンボディアで敵の食糧や潜伏場所の供給を絶つ目的で散布した。これらの化学兵器は、航空機に積み込まれただけでなく、米軍駐屯地の除草のためにGIたちが使用した。1967年、この枯葉剤が製造過程でダイオキシン汚染されていると知りながら、軍は、議会と世論によって計画が廃止に追い込まれる1971年になるまで、さらに大量に使用し続けたのである。
ヴェトナムでは、赤十字の推定で300万人以上がダイオキシンに被曝し、その結果、癌、胎児異常、死産に至った。米国では、政府はエージェント・オレンジと14種の病状との関連を認知し、ヴェトナム、タイ、韓国の非武装地帯で服務した間にこれらの化学兵器に被曝した退役軍人への補償を提供している。ところが、ペンタゴンが、沖縄におけるこれらの枯葉剤の存在を認めないために、この島で被曝したと主張する退役兵への補償が拒否され続けているのである。
パートンは、肝臓、前立腺、結腸に問題を抱えており、これはキャンプ・シュワブでエージェント・オレンジに接触したためだと考えている。この間、大城は、1960-70年代に基地従業員として働いた沖縄の人びとの癌罹患率が急上昇する可能性を調べている。
今も残留する土壌汚染に対する住民の不安を増幅させたのは、軍の枯葉剤の取扱いに関するパートンの説明である。「貯蔵倉庫にあったドラム缶から漏れ出たものもあった。それで軍は、パレット周囲に1フィート半(45センチメートル)の深さの溝を掘って、流出を防いだ」。
ダイオキシンは土壌に数十年残存する。ヴェトナムの元米軍基地では枯葉剤が最初に持ち込まれてから40年以上後も、重度に汚染されたままである。
さらにパートンは、キャンプ・シュワブに沢山のドラム缶が埋められたのを目撃したと主張している。ドラム缶は錆びていて何が入っているのか識別できなかったものの、この種の取扱いは、米軍が、使用が縮減され不要になったエージェント・オレンジを処理する方法と一致している。ある退役兵は、エージェント・オレンジが嘉手納と普天間、そして沖縄中部の北谷町にある米軍施設で1969年に処分されたと主張しているが、標準的な軍の慣例に基づいた枯葉剤の埋却の様子を語っている。「船に積んで国に持ち帰るよりも費用がかからないから、ドラム缶を埋めたのだ。そのほうが安上がりだからだ」。
こうした発言は、米国のヴェトナム問題局が、政府記録が「1969年8月から1972年3月までの間に、除草剤薬剤が沖縄に貯蔵されその後処分されたことを示している」とする2009年の裁定を裏付けている。
軍内部の高官が認めたにも拘わらず、ワシントンはいまだに、否定の方針を崩さない。日本政府がペンタゴンに8月の元米兵の証言について調査を促したところ、この件についての記録はないと回答した。
この記事で浮上した疑問についてのコメント依頼は、キャンプ・シュワブ司令官から東京の米軍司令部に申し送られた。名護市議会決議と、1973年日米合同委員会への対応を尋ねられたUSFJHQは、電子メールで次のように回答を送ってきた。「DOD(国防省)は、調査を行ったが、除草剤オレンジを沖縄に輸送した、あるいは除草剤オレンジを南ヴェトナムに輸送する航空機または船艦が途中で沖縄を経由したなどの記録は見つからなかった」。
この型にはまった回答は、沖縄でエージェント・オレンジに被曝したと主張するパートンや何十人ものその他の退役兵たちにはお馴染みのものだ。「私たちのように苦しんでいる人がまだ沢山いるんだ」とパートンは語った。「しかし政府は、否定に否定を重ねて私たちを宙ぶらりんのまま、たなざらしにするばかりだ」。
しかし、今後数ヶ月のうちに、普天間基地のキャンプ・シュワブへの移転案がますます注目を浴びるにしたがって、ペンタゴンは、この島で猛毒の枯葉剤を使用したという訴えについて、明らかにせよとの高まる圧力に直面せざるをえなくなるだろう。
この問題についてのご意見・ご感想は以下へどうぞ。
community@japantimes.co.jp
[参考]
●枯葉剤の調査を求める名護市議会決議、2011年9月26日。
http://www.city.nago.okinawa.jp/DAT/LIB/WEB/1/11ketsugi10.pdf
●1973年日米合同委員会合意
(英文)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/sfa/kyoutei/pdfs/03_08en.pdf
(日本文仮訳)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/sfa/kyoutei/pdfs/03_08.pdf
●「沖縄におけるエージェント・オレンジの証拠」『ジャパン・タイムズ』2011年4月12日。
http://www.japantimes.co.jp/text/fl20110412zg.html
(日本語訳は以下を参照)
http://okinawaforum.org/disagreeblog/2011/04/40.html
●「元米高官証言「沖縄で枯れ葉剤散布」」『沖縄タイムス』2011年9月16日。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-09-06_23051/
また、記事の画像は以下を参照。
「9月6日タイムス、北部訓練場での枯葉剤報道」やんばる東村高江の現状blog2011年9月15日。
http://takae.ti-da.net/e3712458.html
●2009年ルール
(参考リンクを準備中・・・)
VA(退役軍人省)のWebサイト内のエージェント・オレンジ情報サイト
http://www.publichealth.va.gov/exposures/agentorange/index.asp
●キャンプ・シュワブと北部訓練場の使用開始年の誤差について
日本語版ウィキのばあい
キャンプ・シュワブ:「1956年11月16日:キャンプ・シュワブとして使用開始。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AF%E3%83%96
北部訓練場:「1957年10月25日北部海兵隊訓練場として使用開始。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%83%A8%E8%A8%93%E7%B7%B4%E5%A0%B4
英語版ウィキのばあい
Camp Schwab:" The Camp was dedicated in 1959, in honor of Medal of Honor recipient Albert E. Schwab, who was killed in action during the Battle of Okinawa."
http://en.wikipedia.org/wiki/Camp_Schwab
Northern Training Area:"Established in 1958 as a Counter Guerilla school in the early years of the Vietnam War, the area offers the same challenges that prepared our predecessors for operations in Southeast Asia. "
http://en.wikipedia.org/wiki/Camp_Gonsalves