Japan Focus に掲載されているジョン・ミッチェルさんの枯葉剤に関する論文、翻訳が追いつかないままだったのですが、やっとひとつめが翻訳できました。微修正があとから追加されるかも知れませんが、少しでも早く多くの方に読んでいただきたく(すでにかなり出遅れましたが)、どうぞご利用下さい。
またオリジナルのサイトには写真や動画もありますので、参照しながら読むとよいと思います。
ジョン・ミッチェル
「沖縄における米軍の枯葉剤:エージェント・オレンジ」
http://www.japanfocus.org/-Jon-Mitchell/3601
はじめに
2011年8月19日、日本外務省はヴェトナム戦争期の沖縄における米軍の枯葉剤(オレンジ剤を含む)の使用と貯蔵について最近マスコミで報道されたことを受けて見解を発表した。外務省の発表によれば、米国防省にこれらの疑いについて調査を求めたが、ワシントンは、問題の時期に如何なる証拠も発見されなかったとの回答だったという。その結果、東京は米政府にさらに詳細な記録の再調査を求めた。(1)日本政府が米国に枯葉剤調査を求めたのは2007年以来のこととなった。また、記録の保管を否定したペンタゴンの回答を拒否することは珍しいことだった。これらの化学品が1960-70年代の沖縄で広く使用されていたと主張する新聞報道がつづいたかつてないこの2週間の後に、今回の発表が行われたのである。
定期的に新事実が暴露されたが、これはなお、急速に展開しつつある問題である。しかし本論文では、現在に至る状況を解きほぐして説明を試みる。まずヴェトナム戦争期の沖縄の役割と戦争における枯葉剤の使用について外観し、次に、この島における枯葉剤の存在を公式に認めることになった退役軍人局(VA)の1998年裁定、2009年裁定について探る。その後、沖縄で枯葉剤の輸送、貯蔵、散布、埋却を含む取扱いの経験について元米兵の証言をまとめる。結論では、ペンタゴンから認定を勝ち取ろうとするさいに、これらの米兵や沖縄住民が直面する障壁、加えて、希望の予兆、困難とはいえ、このような承認は獲得可能
であることを述べたい。
沖縄とヴェトナム戦争
1945年6月に米軍占領を受けたあと、沖縄は急速に、オリンピック作戦、想定されていた連合軍の日本本土侵攻の前線基地となった。原子爆弾とソヴィエトの日本への宣戦布告によって、さらなる攻撃は不要とされた。東京を中心とした占領に勝者の関心が集まったため、沖縄の重要性は低下した。1949年11月までには、『タイム・マガジン』誌は「忘れられた島」と呼び、「この4年間で、貧しく台風の多い沖縄は、口の悪い兵士に言わせれば「後方支援戦線の最後尾」にぶらさがっている」と述べた。
この無視という態度は、毛沢東のconsolidation of Communist[「第二次国共合作」のこと?翻訳者注] の中国支配、1950年6月の朝鮮半島における戦争の勃発で一転した。裕仁天皇の推挙によって、米国政府は、沖縄が当該地域における反共の戦略的な緩衝地帯として重要だと把握するにいたった。1952年、サンフランシスコ条約が発効して連合軍による日本占領が終了したが、その第3条が沖縄の未来を除外したのである:
「合州国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」(3)
条約調印直後に、沖縄は東南アジアにおけるすべての戦争のハブとなった。アメリカの船艦は沖縄の港で積荷を降ろしたが、そのすぐそばの基地で保管された物資には、ビールやトイレットペーパーからマスタードガス、神経ガス(以下の「赤帽作戦(Operation Red Hat):2009年フォート・ハリソンVA裁定」の節で論じた)などのもっと危険な品目までなんでもあった。嘉手納空軍基地からはB52が連日、ヴェトナム、ラオス、カンボディアへの爆撃に飛び立ったし、沖縄の北部のやんばると呼ばれるジャングルでは、ニセのヴェトコン村がつくられ、この戦争ゲームにリアリティを加味するため毎日雇われた地元住民がいた。
15年を少し上回る期間、沖縄は「後方支援戦線の最後尾」から大きく外れ、この地域の要諦(linchpin機軸、根幹)であり、太平洋軍の司令官、ウリセス・S・グラント・シャープ提督をして、1965年に「沖縄がなければ、我々はベトナム戦争を遂行できない」(4)と言わしめている。
軍事目的の枯葉剤について:概略
1930年代から40年代、米軍は敵兵や民間人の隠れ蓑や食糧収穫となるジャングルから追い出す目的で枯葉剤を用いる可能性を調査するため多額の費用を費やすようになっていた。その成果は第二次大戦での使用には間に合わなかったが、1940年代末から1950年代、国防省は米大陸本土とプエルトリコの森林や農場でこれらの化学薬品の試験を幅広く継続していた(5)。
化学薬品の配合バランスによって、軍はこれらの枯葉剤を入れたドラム缶に異なる色の縞模様で色分けし、これが、広く知られることになる溶剤の名前、ピンク、グリーン、パープル、ホワイト、ブルー、そしてオレンジ、となった。1962年、ペンタゴンは公式にランチハンド作戦(Operation Ranch Hand)に着手した。南ベトナム、ラオス、カンボディアに10年以上にわたって散布することになる作戦である。1962年から1971年までの間に、約7600万リットルの枯葉剤が使用され、そのうち、400万リットルが、「手作業による噴霧、噴霧トラック(バッファロータービン)、ヘリコプター、ボート」によって撒かれた(6)。エージェント・オレンジといえば、C−123航空機が霧の雲の中を飛行する様子を放送したテレビの映像をイメージする人びとにとって、こうした小規模の噴霧方法は、意外に思うかもしれない。
(写真C−123航空機の散布の様子)キャプ「ヴェトナムでのエージェント・オレンジ散布」
だが、ヴェトナム戦場ジャーナリストのフィリップ・ジョーンズ・グリフィスによれば、「除草剤の使用はジャングルに限られたことではなかった。軍事基地の周囲の草刈りや、多くの場合、基地内でも幅広く使用されていた」という(7)。フレッド・A・ウィルコックスは、同様に「基地の周囲に定期的に散布していた」との指摘をしている(8)。
この現地での散布はGIたちに任されていたが、かれらには基本的な安全装備での防護すらなかった。1970年代末まで、これらの枯葉剤に含まれるダイオキシンの毒性について一般的に知られていなかったからである。1960年代を通じて、製造会社のダウとモンサントは、繰り返し自社製品の危険性についてのメモをたびたび握りつぶした(9)。そのうえ1969年、米軍は、1967年の段階ですでに危険性の疑いがあったにも拘わらず、「(エージェント・)オレンジは人体や動物にはほぼ無害である。航空機散布で曝された兵員による負傷の報告はない」と兵員に対して発表し続けていた(10)。
1971年までに、これらの枯葉剤の健康への危険性に関する科学的証拠や報道の集中砲火を浴びて、ようやく、ペンタゴンはランチハンド作戦終結を宣言せざるを得なくなった。ところが、残った枯葉剤の在庫は、その後も数年以上にわたって、除草目的で使用され続けたのである。科学者の推計によれば、1961年から1971年の間に製造された枯葉剤には、360キログラム以上のダイオキシンが含まれており(11)、この黙示録的とも言うべき量は、一兆人の致死量に相当する(measured in parts)のである。ヴェトナムだけで、赤十字社は「先天性障害を持つ15万人の新生児を含む、300万人のヴェトナム人がエージェント・オレンジの被害を受けた」と推定している(12)。
枯葉剤製造社は、ヴェトナムの被害者に対して全く補償を行って来なかったが、1984年に、被曝した米退役軍人に対して1億8000ドルの賠償を行うことで法廷での和解(settled out of court)が決定した(13)。1962年から1975年の間にヴェトナムに駐留したアメリカ人米兵すべてに、軍の枯葉剤被曝を認定し、これがダイオキシンに由来する疾病への補助を可能にした。症例には前立腺癌、ホジキン病(悪性リンパ腫)、多発性骨髄腫が含まれる。退役軍人局(VA)は枯葉剤を使用したとペンタゴンが公的に認知している地域の一覧を保管している、そこにはカナダ、タイ、朝鮮半島の非武装地帯、ラオス、プエルトリコと合州国内の12の州が含まれる(14)。
沖縄の軍用枯葉剤:1998年退役軍人局のサンディエゴ裁定
2007年7月、ほんのつかの間、国防省が沖縄をこの地域リストに加えるかどうかの局面が訪れた。共同通信が「エージェント・オレンジ沖縄で使用の可能性:米退役軍人局の調査委で」(15)と題した記事を配信したときのことである。記者はサンディエゴ地方事務局が、1961年から62年に沖縄に駐留したため前立腺癌にかかったと主張する元米兵に補償を認定した1998年のVA裁定を明らかにした(16)。
米海兵隊の運転手をつとめたこの元兵士は、「輸送や、沖縄北部での模擬戦闘訓練(War Games Training)で使用された際にエージェント・オレンジ被曝していたと報告された」。元米兵の話では、軍用枯葉剤が使用されたのは「特に駐留基地の周囲だった。トラックや背負った容器からの散布は道路周辺にも用いられた」。
この審査での裁定において、VAの見解は以下のとおりである。「元兵士は、確かに彼の証言する場所におり、この時期、軍が増強を図っていたとする観点を補強する意見も多数ある。従事した作業は、除草剤の混合や輸送と矛盾しない。当時、これらは使用されており、警告は必ずしも与えられていたとはいえない」。そして「エージェント・オレンジ被曝を原因とする前立腺癌と軍務との関連が認められる」と結論した。
1998年裁定は、3つの重要な点で新しい局面を切り拓いた。初めて米政府の部局が沖縄での枯葉剤被曝のみを原因とする元米兵への補償を認めていたことである。ヴェトナムへの出撃拠点としての沖縄の役割を考えれば、大半の元兵士は、両方の地域で軍務に就いていた。そのためどこで被曝したのかという点は判断が難しかった。だが1998年裁定で、元兵士はヴェトナムに行ったことがなく、そのダイオキシンに関連する症状は沖縄で起こったと確定出来たという点である。
第2の重要な点は、この裁定が本件に関するペンタゴンの公式の説明と矛盾する結果となったことである。2004年に、統合参謀本部長リチャード・マイヤーズ将軍(General Richard Myers, Chairman of the Joint Chiefs of Staff)は、下院の退役軍人問題委員会の審議で「沖縄におけるエージェント・オレンジその他の除草剤の使用、貯蔵を裏付ける資料はない」と回答したことが発表されていた。彼はさらに「エージェント・オレンジの事故その他によるいっさいの漏出の記録はない。したがって、沖縄に駐留した兵士について軍務中のエージェント・オレンジまたは同類の除草剤への被曝の記録はない」とまで言い及んでいる(17)。共同通信の記事が発表された後も、国防省はこの姿勢を変えていない。
第3に1998年裁定によって、自分たちもまた沖縄で枯葉剤に被曝したと疑っていた数百にのぼる他の元兵士たちが堰を切ったように現れた。もしもこの裁定が民事裁判でなされていたとすれば、他の人びとの主張を裏付けるための判例となっていただろう。しかし、VAの裁定はそのように利用できない。1998年裁定を根拠に申請を試みたが却下された2010年の事例がそれを物語っている。
「委員会の裁定は前例とはならない。連邦規則集第38巻第20条(38 C.F.R. § 20.1303)。よって、その他の委員会決定でなされたいかなる根拠、結論、発見も、本裁定には関連せず、退役兵の要求については、本件における個別の事実に基づいて決定されるものとする」(18)。
この規定のために、1998年の決定以後13年間、沖縄で軍用枯葉剤に被曝した他の元米兵には誰一人として補償が認められていない。
赤帽作戦:2009年フォート・ハリソンVA裁定
かつて軍務に従事した人びとの不満を募らせたのは、モンタナ州フォート・ハリソンのVA地方事務所でのさらなる発言である。これは2009年11月、1962年から64年の沖縄駐留の間に枯葉剤に被曝したと証言した補給作業員の主張に関する裁定だった。VAは元米兵の主張を却下したが、本件に関するペンタゴンの立場との矛盾を直裁に示す証拠を、うっかり提示してしまったのである。
「赤帽作戦に関する記録によれば、
除草剤が沖縄に貯蔵され、後に、1969年8月から1972年3月までの間に処理された」(19)[下線部強調は著者による]。
この下りは、1971年赤帽作戦に関する公文書と完全に一致する。 二期に及ぶ計画の(two-phase project)期間中、陸軍は、1万2000トンにのぼる生物・化学兵器(神経ガス、マスタードガスを含む)の貯蔵物を沖縄から南太平洋のジョンストン島へ撤去した(20)。これら移送品のなかに軍用枯葉剤が含まれていたのではないかとの疑惑は以前からあった。同年、米軍が350万リットルの軍用枯葉剤を南ヴェトナムからジョンストン島へ引き揚げているからである(21)。さらに、除草剤が「沖縄で処理された」という記述は、この期間に沖縄島内の3箇所に埋却した枯葉剤についての元米兵の説明によって裏付けられる(後述する「キャンプ・ハンビーで枯葉剤を処分:海兵隊普天間飛行場と嘉手納空軍基地」を参照)。
2007年の共同通信の記事が配信された後、まだ日の浅い時期に暴露されたこの最新の情報が、沖縄でダイオキシン被曝して罹患した多くの元米兵に希望を与えたのである。にも拘わらずVAは例外なく、あらゆる要求を却下し続けていた。以前は、多くの元従軍兵たちは、かれらの体験が表沙汰になると、自分たちの名誉に傷が付き、なおかつ、補償金を受け取る機会を閉ざすのではないかと恐れていた。しかし、今日、彼らの多くが、失うものはもう殆どないと気付いたのである。
元米兵、証言す
2011年4月12日、『ジャパン・タイムズ』紙に3人の元米兵の証言に基づいて書いた筆者の記事「沖縄におけるエージェント・オレンジの証拠」が掲載された(22)。港湾荷役の作業に従事していたジェイムズ・スペンサーは那覇港とホワイト・ビーチで何百缶ものエージェント・オレンジの荷下ろしについて詳述した。ジョー・シパラは、泡瀬通信施設に勤務した空軍兵で、除草目的で基地の周囲に定期的に枯葉剤を噴霧した様子を説明した。ラマー・スリートは、キャンプ・クエの衛生兵で、基地の設置の際にエージェント・オレンジが使われたこと、容器からこぼれた枯葉剤を浴びた兵士の事件に立ち会ったことを語った。
3人はみな、VAがエージェント・オレンジ被曝の症状と認定する病気に罹っており、もしもヴェトナムに駐留した経験があれば、医療補償を認定されていただろう。しかし、かれらの要求は却下された。主な理由は、沖縄に軍用枯葉剤の記録はないとの主張を国防省がいまだに続けているからである。
2011年4月の記事に勇気づけられて、さらに多くの元兵士たちが、かれらの体験を証言するに至った(23)。それらの説明を集約すれば、南は那覇軍港から北はジャングル戦闘訓練センターまで、十数カ所の沖縄の駐留地で、軍用枯葉剤が輸送、貯蔵、散布、埋却された状況の全体像を描くことができる。施政権返還の前後に及ぶ1961年から1975年までの14年間にわたって、エージェント・オレンジ、イエロー、ピンク、パープル、ブルーの何千もの容器が沖縄に存在したことを彼らは指摘しているのである。
1. 輸送
「あらゆるヴェトナム戦争は、エージェント・オレンジも含めて、那覇軍港を通過したのだ」。
元兵士の説明によれば、沖縄に到着した枯葉剤の大半は那覇軍港に着いた。わずかな規模でホワイト・ビーチと天願桟橋にも着いた。時に、米国からの輸送途中で容器が破損し、港湾作業員は漏れ出る化学物質を浴びた。これらの港に到着した後、ドラム缶容器は一時的に保管され、小規模船舶に積み替えてヴェトナムへ輸送された。別の方法では、枯葉剤はトラックで嘉手納空軍基地か普天間飛行場へ運ばれ、そこから戦場へと飛んだ。
枯葉剤の沖縄への移送に関与した会社は、ベアー・アンド・ステイト・ライン商船(the Bear and the State Line merchant marine ships)、個別の船舶ではSS シーリフト、SSトランスグローブ、SSシャイラー・オーティス・ブランドであった。
軍需物資輸送における民間船の使用は、ヴェトナム戦争では多く記録されている。エージェント・オレンジ輸送に関する情報は国防省(すなわち当時の国軍省)の記録にないとのペンタゴンの主張は、用語を用いた巧妙なごまかしと言えるだろう。
2. 貯蔵
「補給場のことで一番よく覚えているのは、積み上がったアルミニウム製の棺桶と、真ん中にオレンジのストライプが描かれた55ガロン缶だね。」
枯葉剤は上述の埠頭から積み降ろされた後、元米兵の証言によれば、3カ所の主要な場所に保管され、南ヴェトナムへ輸送する命令が下るまで待機した。マチナト補給地区、那覇港、嘉手納空軍基地である。
マチナト補給廠は、元米兵のインタビューでもっとも頻繁に言及される。「オレンジの縞模様の55ガロン缶が何百もあった」とある元フォークリフト操縦士は想起する。「マチナトでは、RBX(Red Ball Express 赤玉特急= ヴェトナム戦争時の兵士たちは、第二次大戦時のことばを借りてきて、前線へ補給を行う輸送システムのことをこのように呼んだ)の注文に応えるべく、定期的にそれらをパレットに積んだ」。証言によれば、マチナトにはエージェント・オレンジに加えて、エージェント・イエロー、ブルーがもあった。元トラック運転手はマチナトの枯葉剤貯蔵場所を正確に示すことができ、「第2輸送部隊が一時的に営舎を置いた敷地と、材木置き場との間の海に近い広場にあった」という。
那覇港は、2番目によく言及される貯蔵場所である。元兵士は、埠頭側の倉庫に何千もの枯葉剤の缶が積み降ろされたと主張している。証言では、1961年から1970年にわたって、那覇港はピンク、パープル、オレンジを含む軍用に用いられた全範囲の枯葉剤溶剤を保管するために使われていた。「当時は、なんでも同じように取り扱った」と、1960年代末に駐留した元兵士のひとりは言う。「20年経って、テレビのドキュメンタリ番組で見るまで、あのオレンジの縞模様のドラム缶が何なのかさえ知らなかったのだ」。
嘉手納空軍基地は、元米兵の証言中、第3番目の規模で貯蔵された場所である。その主張によれば、1960年代末まで、「嘉手納にエージェント・オレンジのドラム缶が沢山あることは、みんな知ってたよ」。元兵士は、南ヴェトナム行きの航空機に積み込まれるまで枯葉剤はそこに保管されていたのだと語っている。別の元兵士は、嘉手納の知花補給廠で枯葉剤のドラム缶を見たことを覚えている。1969年、神経ガスが漏れ、陸軍が赤帽作戦の実施を急いだあの場所である。
これら3カ所のほかにも、多くの米軍基地で区域の除草のために小規模の枯葉剤を保管していたことは確かなようだ。その規模は、「50缶かもう少し多かったかもしれない」キャンプ・シュワブから、1缶を保有し、必要に応じて補給トラックから補填したという泡瀬通信施設までさまざまであった。
3. 散布(24)
「それは簡単だし効果的だった。一番重要なのは、ハブを寄せ付けないという点だ」。
軍用枯葉剤の大半はヴェトナムに輸送されたが、地元で除草剤としても使われたことを、元兵士たちは証言している。南ベトナムでのことを語るグリフィスとウィルコックスと同様である。「記録保管の必要がなかったので、司令官の多くは、雑草を生やさない安上がりな手段としてエージェント・オレンジを『採用』した」とある元米兵は語った。
元兵士は、(キャンプ・フォスター、泡瀬通信施設、キャンプ・シュワブ、キャンプ・クエ、マチナト補給廠、読谷[軍用]犬訓練所(25)などの)周囲を区画するフェンスの付近や、飛行場の滑走路(嘉手納空軍基地、普天間飛行場)で使用するまえに、背中に背負うタイプの噴霧器に枯葉剤を補充する方法を詳述した。また、マチナト、キャンプ端慶覧の住宅区画に散布したとの報告もある。将校クラブ、キャンプ・フォスターのクバサキ・ハイスクール(下記参照)も対象だった。
枯葉剤を使い切った後のドラム缶は、ゴミ焼却に再利用されたとの説明もある。このような習慣は特に危険で、ステルマンほか著によれば「208リットル缶が「空」になったあとにも、約2リットルの除草剤が残留しており、燃焼過程でダイオキシンの毒性が上昇すると考えられる」という(27)。
4. 民間人の被曝
「私たちは国に貢献し、今や病に苦しんでいる。私の子どもたちや沖縄の子どもたちはどうなったのか?かれらも苦しむのか?」
多くの場合、元兵士の説明は米軍基地内部での枯葉剤の輸送、貯蔵、使用についてであり、米軍兵士がダイオキシン被曝の危険に晒されていたことを示している。しかし沖縄とアメリカ双方の民間人もこれらの化学品に接した可能性を示す証拠がある。
i. 沖縄軍雇用員
1960年代半ばからの元兵士の証言は、60年代末まで、普通は基地で枯葉剤を噴霧したのは米国人作業員だったというが、業務が地元住民に委託されていたことが明らかになった。キャンプ・クエでは、たとえば、ある元兵士は「アメリカ人監督の指導の下で沖縄人が枯葉剤を噴霧していた」ことを覚えている。キャンプ・フォスターにおいても、別の元米兵が、「様々な機会に、沖縄人の地上職員が建物や冷蔵保管区の周囲に枯葉剤を噴霧していた」のを目撃している。マチナト補給廠でも、エージェント・オレンジの積載や散布に沖縄人労働者が加わっていたとの報告がある。
ii) 沖縄人農家
元兵士の主張によれば、枯葉剤の効果を見た沖縄の人はその雑草駆除力に感心していた。元兵士によれば、アメリカ製品が非合法に沖縄製品と取引されたのと同じように、少量の軍用枯葉剤が地元住民と交換された。それらの沖縄人は農家であると元兵士は思っているが、引き渡した化学薬品がその後どのように使用されたかは確認していない。
iii) 国防省付属学校
元兵士の説明において、1960年代末に、国防省付属の学校周辺に枯葉剤を噴霧したことが複数から言及されている。そのうち、キャンプ・フォスターのクバサキ・ハイスクールについては二人の元兵士が言及している。陸軍と沖縄の管理人が定期的にエージェント・オレンジを使用して、教室近く、校庭、運動場の除草を行ったと主張している。ひとりの元兵士によれば、枯葉剤はヴェトナムに送られるものと同じ補給場から届いていることは誰でも知っていたことだという。別の元兵士は、この用法は、キャンプ・フォスターのあらゆる場所で噴霧された除草剤についても一致していると主張している。
5. キャンプ・ハンビー、普天間飛行場、嘉手納空軍基地での枯葉剤の処分
「軍はいつものようにやった。埋めるのだ。」
2009年、1969年から1972年の間に沖縄で除草剤溶剤の処分に関して言及したフォート・ハリソンのVAの解説は、マチナト補給廠で働いていた元フォークリフト運転手の証言を裏付けている。この元兵士によれば、1969年、彼は海上輸送の途中で破損したエージェント・オレンジのドラム缶を何十も埋却するのを目撃している(28)。
「かれらが長い溝を掘ったのを見た。クレーンが複数台あってコンテナをつり上げていた。そして、中のドラム缶をぜんぶその溝に揺すり落とした。その後、土をかぶせて埋めた。どこかって?ハンビー地区(現在の北谷)のメインゲートを通って、25マイル先に行くとコネックス(コンテナ置き場)がある。溝は海から半マイルほどの距離で、岩に近かった」。
この元兵士によると、エージェント・オレンジが埋却されたのはハンビー地区だけではない。1970年の終わりまでに、米軍は枯葉剤使用の規模を縮小するよう求める高まる圧力(29)にあって、このほかに海兵隊普天間飛行場と、嘉手納空軍基地の二つの貯蔵についても埋却した。「軍はいつもやるようにやった」と元兵士は言う。「それらのドラム缶を埋めたのだ。本国に送り返すよりも費用がかからないからだ。そうしたほうが安上がりだからだ」。
8月8日、沖縄キリスト教学院大学での発表の反響
2011年8月、西原町の沖縄キリスト教学院大学で、軍用枯葉剤に関する調査の報告を行った。
<動画資料Part 1, Part 2>
この報告の前の週に、沖縄の日刊紙がこの島の軍用枯葉剤に関する詳細な記事を掲載していた。8月6日、『沖縄タイムス』紙は「枯葉剤9施設で使用」と報じた(30)。翌日、『琉球新報』紙は元空軍兵のジョー・シパラへのインタビューに基づいて「枯れ葉剤8施設で使用」(31)、「基地内の調査必要」(32)、「親子2代疾患に悩む」(33)の三つの記事を報道した。8月9日には、本土の『朝日新聞』がこの問題を採り上げ、「ベトナム戦時『米軍、沖縄の施設に枯れ葉剤』」(34)と報じた。その日の夜にはテレビのニュースでも「枯れ葉剤と沖縄の関係」(35)が放送された。
このように広くメディアに報道されたことで、日本政府は驚いたのか、8月9日には最初の公的な反応を示した。参議院外交防衛委員会で、松本剛明外相は、外交ルートを通じて米国側に事実関係を照会していると述べた。自民党の島尻安伊子は日米合同調査を求めたが、松本はまずワシントンの回答を聞きたいと言うにとどまった(36)。
5日後の8月14日、『ジャパン・タイムズ』紙は、キャンプ・ハンビーにエージェント・オレンジを埋却したと説明するフォークリフト運転手の記事を発表した(37)。ふたたび、沖縄のメディアは素早くこのニュースを報道した(38)。8月19日、米軍の日刊紙『スターズ・アンド・ストライプス』が「沖縄県知事、エージェント・オレンジ証言で緊急に調査を求めた」(39)と報じた。
日本語の東京を拠点とした報道は、この問題を採り上げないことにした。しかし、日米両政府は、予想される影響について把握していたことが判る。8月19日の夜、外相は「沖縄での軍用枯葉剤の証拠は発見されなかった」とペンタゴンは主張しているが、日本政府はさらなる調査を求めたと発表した。
結論
1989年、フレッド・A・ウィルコックスは著書『死ぬまで軍を待って』のなかで、ヴェトナム戦争時エージェント・オレンジに被曝したと認定を受ける過程で元米兵が直面した困難を記録した。22年後の今なお、このタイトルは、沖縄でダイオキシンに被曝したと言う元兵士に対してペンタゴンやVAが取る態度を、よく表している。本論文でインタビューに答えた元兵士たちは、当局がかれらの要求を滞らせるときに採用する終わりの見えない堂々巡りの策略について語っている。見つからない配備命令、通院記録の紛失、そして存在しないとVAは知っている40年前の記録を探し出すよう元兵士に要求するのだ。「退役軍人第一主義」の替わりに、VAはスローガンを「みんな死ぬまで遅らせろ、拒絶しろ」に変えるべきだと多くの元兵士たちは思っている。沖縄におけるエージェント・オレンジを国防省は認めることになるだろうかと考えを尋ねると、ひとりの退役陸軍兵はこう答えた。「どれだけ出費しなければならないか想像してみたまえ。そういうことだ。退役軍人のことなど気にかけていない。カネの問題さ」。
彼の答えは、筆者がインタビューした退役兵たちのほぼすべての考えを代弁している。1998年VA裁定が、あの当時広く知られていたなら、米国経済は好調で、退役兵への国民感情もまだ良かったころであれば、ペンタゴンはこの問題についてきちんと解決できていたかもしれない。だが、この13年間で世界は大きく変化し、米国経済は長引く不況にあえぎ、アメリカ帝国のこの小さな前哨地で有毒化学物質に曝された退役兵たちが、困難な闘いを強いられている。
沖縄の米軍はすでに環境問題の点で疑うべき実績を記録している。鳥島は1990年代の劣化ウラン弾使用により立ち入り禁止区域にされ、かつてキャンプ・レスターのあった場所はヒ素とアスベストが深刻な数値レベルで残留している。こうした雰囲気のなかで、沖縄での軍用枯葉剤の存在を認めるようなことになれば、環境影響評価と浄化の費用は数千万ドルに及ぶだろうことなど、ペンタゴンは痛いほどよく判っているのだ。
こうした困難が否定できないにもかかわらず、米国政府がじきに、この沈黙を破らざるを得なくなるだろうという、前向きな兆しもある。ヴェトナム戦退役船員協会の立法担当上級代理人(Senior Legislative Advocate)ジェフ・ディヴィスは、「国防省は明らかに役に立たないが、退役軍人局を、証言、統計、科学、記録で圧倒すれば勝てる」と言う。
過去に、この問題で元兵士たちが統一戦線をつくるための主たる障害は、体験談を裏付ける追跡調査の、官僚的・地理的困難だった。ジョー・シパラは、facebookでフォーカス・グループ「エージェント・オレンジ・オキナワ」を創設し、この障壁を乗り越える最前線にある。
シパラはサイトを使ってメディアに掲載された報告書を共有し、エージェント・オレンジ被曝した元兵士たちの間に連帯意識をはぐくみ、VAのやっかいな(hoops and barrels)申請手続きの指南をしている。2011年4月以降、サイトは3万5000ビュー以上を記録し、沖縄でダイオキシンに被曝したという、さらに12名の元兵士の証言に道を拓いた(40)。
同じく、ソーシャル・メディアは、他の地域で認定を求めて闘う元兵士との間にも連帯感を生んでいる。枯葉剤の存在に関するこれほど圧倒的な証拠にも拘わらず、使用されたことがないとペンタゴンが否定し続けている場所、よく知られているところではグアムや韓国などである。このグローバルな取り組みによって、元兵士たちも、これらの化学物質がどのようにしてどの場所に配備されたかをよりよく理解できるようになり、限定された情報にアクセスし、この問題を広く一般に知らせるためのテクニックを共有することにもつながっている。
同時に、8月8日の報告は、沖縄の環境団体と沖縄で被曝した元米兵との間に協同関係を促進する手助けとなった。双方の関係者は連絡を取り合い、元米兵を沖縄に招いてかつて貯蔵されていた場所の特定や、健康への危険性について地域の指導的立場の人びととの対話を持つ計画案も始まっている。沖縄のグループの側では元軍雇用員で枯葉剤を取り扱った可能性のある人びとの証言を収集し、長期的な目標を定めた疫学的研究に結びつくような計画が始まっている。
さらに、軍用枯葉剤が貯蔵されていた地域の土壌と水質の調査に関する計画も進行中だ。南ヴェトナムで同様に貯蔵されていた場所との比較が精緻に行われるならば、これらの場所は今日も依然として高濃度に汚染されたまま現実的な危険性がある(41)。紛れもなく、これらの調査、そしてこれらの指摘が確認されたならば次に必要になる環境浄化には、費用がかかるだろう。だが、健康への危険は非常に高いものであり、日米両政府によるこれ以上の対処の遅れは、単なる黙殺にとどまらない隠蔽であると言える。被害は、本論文でインタビューに答えた元兵士だけでなく、現在、沖縄に駐留中の米兵、この致命的な化学物質を貯蔵していた地域で生活し、働き、農業をする沖縄の人びとにまで拡大するかもしれないのだ。
ジョン・ミッチェルは、ウェールズ生まれで横浜を拠点とする著述家。ニューヨーク、カーティス・ブラウン社を代理人とする。日米のメディアに沖縄の社会問題について広く執筆中。現在、東京工業大学で教えている。主な著作は、以下から。
http://www.jonmitchellinjapan.com/
出典表記
Jon Mitchell, 'US Military Defoliants on Okinawa: Agent Orange,'
The Asia-Pacific Journal Vol 9, Issue 37 No 5, September 12, 2011.
参考文献
Ikhwan Kim, "Confronting Agent Orange in South Korea," Foreign Policy in Focus, September 23, 2011.
http://www.fpif.org/articles/confronting_agent_orange
注記
ジョー・シパラ、スコット・パートン、河村雅美、G・H、ケーテ・ゴーツ、ジェフ・ディヴィス、ロブ・エイブリー、キヌエ・大城=エイブリー、中嶋泉の各位から、本論の執筆にあたって貴重な意見と助力をいただきました。記して感謝します。
(1)この発表について日本語全文はここで見ることができる。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/23/8/0819_03.html
(2)“OKINAWA: Forgotten Island,”
Time, November 28, 1949.
[2訳者注]タイム誌の該当記事へのリンクは以下(講読登録が必要)。
http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,856392,00.html
(3)たとえばここを参照。
http://www.international.ucla.edu/article.asp?parentid=18436
[3訳者注]サンフランシスコ条約について外務省の解説サイトは以下。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/bunsho/h17.html
対訳はたとえば、田中明彦氏の以下を参照。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19510908.T1J.html
(4)Steve Rabson, "'Secret' 1965 Memo Reveals Plans to Keep U.S. bases and Nuclear Weapons Options in Okinawa After Reversion,"
The Asia-Pacific Journal, February 1, 2010.
(5)William A. Buckingham,
Operation Ranch Hand - The air force and herbicides in Southeast Asia, 1961-1971 (Washington D.C.: Office of Air Force History, 1982).
(6)Jeanne Stellman et al. “The extent and patterns of usage of Agent Orange and other herbicides in Vietnam,”
Nature, Vol 422, 681.
http://stellman.com/jms/Stellman1537.pdf
(7)Philip Jones Griffiths,
Agent Orange: ‘Collateral Damage in Viet Nam (London: Trolley Ltd., 2003), 169.
(8)Fred A. Wilcox,
Waiting For An Army To Die: The Tragedy of Agent Orange (Santa Ana: Seven Locks Press, 1989), 26.
http://www.fredawilcox.com/waiting_for_an_army_to_die__the_tragedy_of_agent_orange_99219.htm
(9)この隠蔽に関するよくまとまった概説については、次を参照。 Griffiths pp. 164-169.
(10 )"Employment of Riot Control Agents, Flame, Smoke, Antiplant Agents, and Personnel Detectors in Counterguerilla Operations,”
Department of the Army Training Circular, April 1969.
(11)Stellman et al., 684.
(12)ヴェトナムの人びとの健康への影響その他の情報についてはこのリンクを参照。
http://www.agentorangerecord.com/impact_on_vietnam/health/
(13)これら枯葉剤を製造した主要な企業は、今なお、1984年の和解について、瑕疵を認めたわけではないと強く主張している。ダウ・ケミカル社は「人体への影響の証拠を集合的に再検討すると、エージェント・オレンジが元兵士の症状の原因であると証明するものはないというのが、今日の科学的な共通認識である」と主張している。参照リンクは以下。
http://www.dow.com/sustainability/debates/agentorange/
2004年に、コープウォッチは、モンサントの渉外担当者の発言を引用している。「信頼できる科学的証拠によれば、エージェント・オレンジは、深刻な長期にわたる健康被害の原因ではない」。参照リンクは以下。
http://www.corpwatch.org/article.php?id=11638
2005年、グリフィスは「化学薬品会社、そしてワシントンの売春婦たち、エージェント・オレンジは完全に無害だと言う文書を作成するつもりだ」とこれらの科学者たちを解任した(マンハッタン近隣区ネットワーク「ハロルド・ハドソン・チャナーと語ろう」2005年9月5日放送より)。
(14)地域の一覧は次で見ることができる。
http://www.publichealth.va.gov/docs/agentorange/dod_herbicides_outside_vietnam.pdf
(15)「米軍、沖縄で枯葉剤散布/60年代、元兵士にがん」『共同通信』2007年7月8日配信。
http://www.47news.jp/CN/200707/CN2007070801000362.html
[15訳者注]2007年のその他の枯葉剤報道については、こちらも参照されたい。
http://www.projectdisagree.org/2011/11/2007.html
(16)本裁定(#9800877)の全文は次で見ることができる。
http://www.va.gov/vetapp98/files1/9800877.txt
(17)共同通信2007年7月8日記事より引用。
(18)VA裁定#1030176 全文は次から確認できる。
http://www.va.gov/vetapp10/files4/1030176.txt
[18訳者注]
「委員会裁定は前例とならない」は、裁定文書のREASONS AND BASES FOR FINDING AND CONCLUSION章、Analysis節の2段落めに出現する。
この文書によれば、該当する規定は、連邦規則集第38巻第20条1303項とされている。
Sec. 20.1303 Rule 1303. Nonprecedential nature of Board decisions.
Although the Board strives for consistency in issuing its decisions,
previously issued Board decisions will be considered binding only with
regard to the specific case decided. Prior decisions in other appeals
may be considered in a case to the extent that they reasonably relate to
the case, but each case presented to the Board will be decided on the
basis of the individual facts of the case in light of applicable
procedure and substantive law.
http://edocket.access.gpo.gov/cfr_2002/julqtr/38cfr20.1303.htm
(19)この裁定 #0941781 は次で確認できる。
http://www.va.gov/vetapp09/files5/0941781.txt
(20)赤帽作戦は、1969年、神経ガスの漏出によって20名以上の兵士が病院へ運ばれた事件を受けて実施された。「赤帽作戦:男たちとミッション」は、陽気で愛国的な1971年国防省制作のドキュメンタリで、これらの兵器の除去について詳述している。次で見ることができる。
http://www.youtube.com/watch?v=ApT4-zKF8OY
(21)Buckingham, 188.
(22)“Evidence for Agent Orange on Okinawa”,
The Japan Times, April 12, 2011.
http://www.japantimes.co.jp/text/fl20110412zg.html
[22訳者注]日本語訳は次でどうぞ。
http://www.projectdisagree.org/2011/12/2011412.html
(23)本論文執筆の時点で、軍用枯葉剤を直接に噴霧、貯蔵、輸送したという20人以上の元兵士が現れており、目撃証言はさらに多い。これらの元兵士たちのうち約75%は、VAへの補償要求が申請途中にあるうちは匿名での証言を求めた。全員が、政府担当部局のことを執念深く悪意があると表現している。ある元兵士は、体験を公にすればすでに受けているダイオキシンとは関係のない障害者恩給への影響は「壊滅的なものになるぞ」と言われたことを証言した。
(24)元兵士の主張を退ける際に、VAはしばしば、沖縄において米兵が噴霧した枯葉剤は、「購入可能な商品の除草剤」だったのだろうとの示唆を試みる。これによって、真実を故意に曖昧にしようとしていることが判る。元兵士は、噴霧用タンクは、ヴェトナムに移送されたのと同じオレンジの縞模様のドラム缶から直接に補充されたのだと言っている。VAはある元兵士に、1975年に彼女が吸い込んでしまった除草剤は、モンサント社のラウンドアップだろうと示唆した。これはその1年後まで商品化されていなかったものである。さらに、沖縄の元兵士が描写する軍用枯葉剤の使用法は、当時のヴェトナム全土で広く記録されているものとまさに同じである。けちなことで有名な軍隊が、すでに何千ガロンもの協力な(そして無害と考えられていた)枯葉剤が手中にあるのに、除草剤に余計な金を使うものか、と考えてみればよい。
(25)読谷軍用犬訓練所の周囲への枯葉剤噴霧の証言は、驚くべきことに、1990年の米軍用犬に関する報告書による。この調査は、米国内、ヴェトナム、沖縄で死亡した犬の睾丸の癌の比率を比較している。報告書では、ヴェトナムで死亡した犬は、米国内のそれと比べて睾丸への癌の発症率が1.8倍であったが、沖縄ではさらに高率の2.2倍だった。Howard M. Hayes et al., “Excess of Seminomas Observed in Vietnam Service U.S. Military Working Dogs”,
Journal of the National Cancer Institute, Vol 82, Issue 12.
(26)Stellman et al., 685.
(27)Griffiths, 166.
(28)“Agent Orange Buried on Okinawa, Vet Says”,
The Japan Times, August 13, 2011.
http://www.japantimes.co.jp/text/nn20110813a1.html
[28訳者注]日本語訳は次でどうぞ。
http://www.projectdisagree.org/2011/08/agent-orange-buried-on-okinawa-vet-says.html
(29)Buckingham, 169.
(30)「枯れ葉剤9施設で使用 元在沖米軍人証言」『沖縄タイムス』2011年8月6日。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-08-06_21694/
(31)『琉球新報』紙で区域の数が異なるのは、VAの却下記録の計算に基づいているためである。前日の『沖縄タイムス』紙記事は、筆者の発言を元にしている。「60-70年代、枯葉剤8施設で使用 元在沖軍人、被害認定求める」『琉球新報』2011年8月7日。
(32)「基地内の調査必要」『琉球新報』2011年8月7日。
(33)「親子2代疾患に悩む」『琉球新報』2011年8月7日。
[31-33訳者注]新報のサイトからは取り下げられていて、リンクが切れている。
(34)「ベトナム戦時『米軍、沖縄の施設に枯れ葉剤』」『朝日新聞』2011年8月9日。
http://www.asahi.com/national/update/0809/SEB201108080053.html
(35)「検証動かぬ基地 vol.100 枯れ葉剤と沖縄の関係」琉球朝日放送『ステーションQ』2011年8月9日放送。
http://www.qab.co.jp/news/2011080930040.html
(36)「外相、米に事実照会 枯れ葉剤使用」『沖縄タイムス』2011年8月10日。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-08-10_21904/
(37)“Agent Orange Buried on Okinawa, Vet Says”,
The Japan Times, August 13, 2011.
http://www.japantimes.co.jp/text/nn20110813a1.html
[37訳者注]日本語訳は次でどうぞ。
http://www.projectdisagree.org/2011/08/agent-orange-buried-on-okinawa-vet-says.html
(38)「退役軍人証言『北谷に枯れ葉剤埋めた』」琉球朝日放送『ステーションQ』2011年8月14日放送。
http://www.qab.co.jp/news/2011081430124.html
(39)“Okinawan mayor urges probe into Agent Orange allegations”, Stars and Stripes, August 19, 2011.
http://www.stripes.com/news/pacific/okinawa/okinawan-mayor-urges-probe-into-agent-orange-allegations-1.152587
(40)フェイスブックのコミュニティ“Agent Orange on Okinawa”のリンクは以下。
http://www.facebook.com/pages/Agent-Orange-Okinawa/205895316098692
(41)南ヴェトナムのダイオキシン・ホットスポットの特定と浄化に関する概要は、次を参照。
http://www.aspeninstitute.org/policy-work/agent-orange/cleaning-dioxin-contaminated-soils