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20111215

ジョン・ミッチェル枯れ葉剤論文Japan Focus ID3652

ジョン・ミッチェル「沖縄のエージェント・オレンジ:新証拠」
Jon Mitchell, "Agent Orange on Okinawa: New Evidence," The Asia-Pacific Journal: Japan Focus
http://www.japanfocus.org/-Jon-Mitchell/3652


はじめに
2011年9月、『アジア・パシフィック・ジャーナル』誌に、1960年代から1970年代初頭の沖縄におけるエージェント・オレンジを含む米軍の枯葉剤の存在に関する筆者の研究が掲載された(1)。ヴェトナム戦の前哨基地となった時期にこの島で軍務に服した20名以上の元米兵の証言を元に、論文では、北部はやんばるのジャングルから南は那覇港まで、ダイオキシン類に汚染された化学物質の貯蔵、散布、埋却が行われた14カ所の米軍駐留地を列挙した。これほど多数の体験証言をもってしてもなお、ペンタゴンは軍用枯葉剤がこの島にあったことを否定し続けている。

9月の論文のほか筆者が『ジャパン・タイムズ』紙へ寄稿したその他の文章、また『沖縄タイムス』の記者による調査などに後押しされて、沖縄の政治家、活動家たちは日米両政府に対して、沖縄でのエージェント・オレンジ使用についてはっきりさせ、住民の不安を解消するよう求めている(2)。高まる怒りのなか、10月28日、沖縄県知事の仲井真弘多は東京でジョン・V・ルース駐日大使と面談し、この問題について調査を求めた。ルースはしっかり対応したいと答えたことが報道されている(3)。

沖縄の枯葉剤について新情報が急速に拡がりつつあることをうけて、本論文では、最近の重要な展開についてまとめることを目的としている。まず、1960年から62年の間に沖縄で枯葉剤の実験を行ったという米高官の最近の発言について確認する。つぎに今日なお沖縄に除草剤はなかったと否定する国防省の嘘を暴くことになる1966年空軍の記録を検証する。その上で、本論では、1972年以後も、キャンプ・フォスター、海兵隊普天間飛行場のほか、とくに伊江島において枯葉剤が使用されたという新しい証拠を検討する。最後に、11月4日名護市で行った記者会見の概要を示す。沖縄での枯葉剤使用について沖縄住民がその体験を初めてメディアに語った。

<写真:11月4日名護での記者会見の様子。ジョン・ミッチェル(左から三番目)(桃原淳氏撮影)>



やんばるジャングルでの実験:1960-1962年
2011年9月6日、『沖縄タイムス』紙は一面トップで、アメリカ特派員、平安名純代の記事を報じた。「北部に枯葉剤散布/立案の元米高官証言」と題されたこの記事は、1960年から62年に北部国頭村と東村付近のジャングルで枯葉剤の試験散布が行われたとまとめた(4)。

平安名に対し匿名を条件に証言したこの元軍人は「散布から24時間以内に葉が茶色く枯れ、4週間目には全て落葉した。週に1度の散布で新芽が出ないなどの効果が確認された。具体的な散布面積は覚えていない」と話した。

この元軍人によると、国防省が沖縄を試験場所として選んだ理由は主としてつぎの2点であった。まず、両者の環境が似ているためやんばるのジャングルで枯葉剤の効果が得られればヴェトナムで使えるかどうかが判る。つぎに沖縄島全土は米軍の管理下にあり、ペンタゴンは、その他の地域ならば要求される民間の厳しい健康・安全基準を回避できた。

この高官の話は、現時点で入手可能なペンタゴンの枯葉剤に関する記録と符合する。1960年代はじめ、米軍はランチハンド作戦の一部として南ヴェトナム一帯に広く[枯葉剤を:訳者注]散布する任務の遂行に、いまだ技術的な微調整を必要としていた(5)。

国防省官僚の一部は、遅々として成果の上がらない進捗状況に苛立ちを募らせており、高度に機密保持された「アジャイル計画」(Project AGILE)[アジール計画?]を隠れ蓑としてさまざまな場所で計画を進めていた(6)。「アジャイル」に関する記録には、枯葉剤の試験がプエルトリコ、タイ、米国本土で行われたことを示すものがあるが、その他地域での詳細はいまだに機密扱いのままである。情報自由法(Freedom of Information Act)に基づいて残るアジャイル計画関連の文書を公開させる試みは現時点で成功していない。

当該時期に沖縄島北部で任務に就いていた兵士が、『沖縄タイムス』の記事を立証する。1961年から62年に沖縄にいた元兵士のひとりが、やんばるでの模擬戦闘訓練(war games)の最中にジャングルで枯葉剤が使われた区画を目撃したと語っているのである。その区域で野営した彼は現在、米政府がダイオキシンに由来すると一覧表にしている数種の病に苦しんでおり、やんばるでのことが原因だと考えている。高官の話を確証するもうひとつの事実がある。今日に至るまでで唯一、退役軍人省(Department of Veterans Affairs)が、沖縄で被曝した枯葉剤を原因とする疾病に補償を支払った事例は、1961年から62年のあいだに「沖縄北部の模擬戦闘訓練で使用した」際にこの化学物質に被曝した元海兵隊トラック運転手だけなのである(7)。


沖縄と除草剤についての空軍報告書:1966年

<写真:1966年5月の文書にある写真。米空軍C-123が南ヴェトナムのハイウェイ上を低空飛行し道路脇の深いジャングルに枯葉剤を散布している。ヴェトナム戦争中、潜伏する「ヴェトコン」を追い出すことが目的だった。>



2011年10月、筆者は、全米ヴェトナム戦争退役軍人会でエージェント・オレンジ/ダイオキシン問題委員会の座長を務めたボール・サットンから国防省の文書を譲り受けた。1966年9月8日付けのこの報告書には、民間の技術者代表団によるフィリピン、台湾、沖縄18日間の旅行の詳細がまとめられていた。沖縄滞在中、かれらは那覇空軍基地、嘉手納空軍基地、米軍司令部、米軍医学研究所を訪問した。

報告書によれば、この旅の目的のひとつは「害虫駆除」と「除草剤」に関して「基本計画の見直し、安全かつ効果的な計画実施に向けた各基地への支援」とある。

「各種製品に関する文書は、会議や、訪問先のすべての基地で配布された。本活動は、害虫駆除・除草に新しく使用可能となった数種の化学薬品について各部局に情報を周知するため計画されたものである」。

文書には「沖縄の保証(certification)は1966年10月まで有効。言語の問題があるので、翻訳の必要がある」とも書かれている。

この文書について論じる前に、「枯葉剤」(herbicide)と「除草剤」(defoliant)の語について米軍での用法を明確にしておくことは重要だ。「ランチハンド作戦」について採り上げたウィリアム・バッキンガムの空軍公認の歴史書では「『除草剤』と『枯葉剤』は『ランチハンド』計画の議論のなかでは事実上、交換可能な用語として使用されていた」(9)と述べている。今日でさえ、ペンタゴンは「枯葉剤」への言及を避けるが、これは暗にダイオキシンという影を背負った語であるためだろう。たとえば、最近の電子メールのやりとりのなかで、在日米軍広報部副部長(Deputy Director of Public Affairs for United States Forces Japan)のニール・フィッシャー少佐は、エージェント・オレンジのことを繰り返し「オレンジ除草剤」と言っている。

このことを踏まえれば、1966年の報告書は、現在ペンタゴンがその存在を否定していることと真っ向から矛盾していることになる。たとえば2004年にマイヤーズ将軍は「沖縄におけるエージェント・オレンジその他の除草剤の使用・貯蔵に結びつく情報は何も記録になかった」(10)と述べた。7年間に及ぶこの否定が、沖縄でダイオキシン被曝したと主張する元兵士への援助を拒絶し続けるVAの基本路線を形成している(11)。

1966年の空軍報告書は除草剤について特記している。元兵士が、認定と補助を拒絶するVAに対して抗弁するのに充分な根拠をもたらすことになるだろう。Facebookで「エージェント・オレンジ・オキナワ」運動を組織し、この問題についてペンタゴンに情報公開を求めているジョー・シパラは言う。

「これは本当に元兵士のためになるだろう。沖縄における除草剤についてはっきりと言及した空軍の公的文書だ。記録がないと言う国防省と矛盾するものだ」。

筆者が連絡を取った多くの元兵士が、この文書を自分たちの申請書に取り入れ始め、また他の人びとにもそうするよう勧めている。1966年空軍文書の全文は次のリンクから入手可能である。http://www.jonmitchellinjapan.com/1966-air-force-visit-to-okinawa-herbicides.html

ペンタゴンとVAは、この報告書に記載された除草剤が、ダイオキシンに汚染されたランチハンド作戦のものと同じではないとの論を試みるだろう。しかし、入手可能な証拠は圧倒的に、かれらの主張の間違いを示している。1966年の旅行は、空軍のランチハンド作戦を担当した部局が計画し、米軍が東南アジアで枯葉剤使用を急激に拡大した年に実施されたのだ(12)。さらに、報告書は「除草に新しく使用可能となった数種の化学薬品」に言及しており、これは1965年に初めてヴェトナムに輸送されたエージェント・オレンジを示している。筆者がインタビューした元兵士たちは、戦場に運ばれた除草剤は沖縄でも散布されたと確信している。そのうちのひとりは、1960年代後期に那覇港で勤務した元兵士で、「秘密ではなかった。向こう(ヴェトナム)で使っていた枯葉剤とまったく同じものを自分たちも使っているのだと、みんな知っていた」と語った。

記しておくべきもうひとつの点は、文書中、「沖縄の保証」で翻訳の必要に触れた箇所である。これは民間の基地作業員が、除草剤の使用に関与していたことを物語っている。キャンプ・クエ、キャンプ・フォスター、マチナト補給廠で民間人の班が、除草作業に加わっていたのを見たと報告する複数の兵士の話が、これを端的に立証する。

これら作業員の健康への影響に関して、次に詳述することにしよう。


枯葉剤の使用:1972年以後
1965年の段階ですでに、エージェント・オレンジに含まれるダイオキシンの毒性は証明されてきたにもかかわらず、ペンタゴンと軍需産業はこの情報を繰り返し隠蔽しようと試みた。1960年代をとおして、国際メディアが南ヴェトナムで異常に高い確率で起こる出生児障害を報告したが、ホワイトハウスは共産党のプロパガンダだと退けた(15)。しかし、1969年、米国食品医薬品局は、実験用マウスの死亡や死産の原因がダイオキシンにあるとの報告を発表し、エージェント・オレンジの使用を縮小するよう勧告した(16)。国防省と製薬会社は枯葉剤使用を継続すべくあらゆる手を尽くしてこれに対峙した。ペンタゴンはなお、「比較的にみれば人体や動物への毒性は殆どない」と主張していた(17)。だが、1971年のフライトを最後に、ランチハンド作戦はその任務を終了した。1972年4月までに、米国は貯蔵されていた枯葉剤の残りを南ヴェトナムから引き揚げた(18)。

筆者がインタビューした元兵士たちの共通認識では、この同じ期間中に、沖縄に保管されていた軍用枯葉剤の大半も撤去されたという。1972年、米軍は赤帽作戦(Operation Red Hat)を実施し、保管されていた生物化学兵器を沖縄からジョンストン島へ移送した。ここに枯葉剤のドラム缶も含まれていたのではないかとの疑いが広く共有されている(19)。VA自体がこの嫌疑に根拠を与えており、2009年裁定で「赤帽作戦の記録によれば、除草剤溶剤が保管されており、後に1969年8月から1972年3月の間に処分されている」(20)と述べている。

しかし、この2ヶ月間で、詳細が明らかになってきた。枯葉剤は沖縄に存在し、散布された。これまで考えられていたよりもずっと後になっても、である。1970年代半ばまでに、米軍はダイオキシンが引き起こす健康上の危険に気付いていたことは疑いない。この時期、この化学薬品を使い続けたことは、明らかに、使用を命令し許可した基地司令官の犯罪的な黙殺行為の証拠である。さらに、事態を避けることが出来なかったペンタゴンは、その責任について重大な罪に問われることになる。

1. 伊江島:1973年
1955年、米軍が射爆場を建設するために銃剣を突きつけて島の三分の二以上を接収して以来、軍は、すでに管理下に置いたはずの土地でなお耕作しようとする地元農民との消耗戦を強いられていた(21)。地元住民が基地内に入るのを追い出す目的で、兵士は恒常的にガソリンを使って収穫物を壊滅させた。

1973年10月31日付けの『沖縄タイムス』の記事によれば、この月「米軍は枯葉剤作戦中」であり、米軍は農民の意志を挫く新しい技術を導入した。

「この度、軍はガソリンは使わず、初めて正体不明の枯葉剤を散布した。村民は耕作地を奪われ、近くの浜の汚染や健康被害に不安を抱いている。枯葉剤は演習場の周囲2000平方メートルの範囲に使用された模様だが、実際の使用範囲や、その他の区域への影響は不明である」(22)。[←タイムス記事原文で正確な表現を確認中、訳者注]

『沖縄タイムス』の記事によれば、真謝地区の住民は、米軍に対して、枯葉剤の散布への抗議と二度と使用しないよう求める要請書を提出した。

沖縄における公民権運動誕生の地、伊江島で、この化学薬品が用いられていた。深刻な暴力性が新たに明らかになったのである。米軍は枯葉剤の健康への危険性をすでに知っていたのであり、軍の行動は、保護されるべき沖縄の人びとを生物学的戦闘も同然の状態においたのである。現在、筆者は、伊江島住民から枯葉剤が散布された地域を確認中である。また、1973年の住民の要請書に対して、米軍司令部がどのように対応したのか調査するつもりである。

2. キャンプ・フォスター:1975年
1975年から1976年の間、ケイト・ゴーツ(Caethe Goetz)は、海兵隊キャンプ・フォスターに勤務した。この滞在中、基地周辺に除草剤を噴霧する兵士を目撃している。

「フェンス沿いには雑草は生えていませんでした。歩いて通り過ぎるときには、刺激臭がして、頭が痛くなったものでした。ときどき、兵士が手作業で噴霧しているのも見ました。あるとき、風が吹いて霧が自分にかかりました」(23)。

今日、ゴーツは多発性骨髄腫を病んでいる。ダイオキシンに由来するとVAが認定する14種の疾患のうちのひとつである。深刻な病にもかかわらず、ゴーツは沖縄の枯葉剤を認めさせる闘いで声を上げる活動家である。長い入院期間中に始めたブログは「スパロー・ウォーク」(Sparrow Walk)mpバナーにつづいて「沖縄で勤務した元海兵隊員として、彼女は、沖縄で従軍したすべての者たちのために、沖縄におけるエージェント・オレンジ使用を認めさせるようVAに対して声を上げている」と書かれている。

そのほかの3人の元兵士の体験談が、1970年代半ばのキャンプ・フォスターでエージェント・オレンジが使用されたというゴーツの主張を裏付けている。ある元トラック運転手は、当時、基地に何十ものドラム缶を目撃しており、もうひとりは周囲のフェンスの除草を行う噴霧チームをよく見かけたという。三人目の元兵士も、キャンプ・フォスターで枯葉剤のドラム缶を見た。雑草駆除の効果から「AOは島で是非とも必要とされていた」と彼はいう。軍の他の部署は健康への影響を恐れて保管していたものを廃棄したが、海兵隊は「処分するのはもったいない」から長く使用を続けたのだと説明した。

3. 海兵隊普天間飛行場:1975年
元海兵隊の伍長勤務上等兵(Lance Corporal)、カルロス・ギャレイは、1974年から75年に海兵隊普天間飛行場で基地補給部門に勤務した。ギャレイによると、枯葉剤は備え付け品として保管されており、化学薬品入りのドラム缶12缶の処分の要望書類をタイプした。

「処分の方法はまだ決定待ちでした。有毒物質のため、DOD(国務省)のみがその運搬先や処分について決定出来たのです。私はDODに文書を送ったし、手順だったのでHQMC(海兵隊司令部)へも何度も情報提供しました。しかし返答はありませんでした」。

「他にもいくつかの小隊で、手持ちのドラム缶などがありましたが、DODの回答は遅れ、待つようにと言われていました」。

ペンタゴンがギャレイの要求に回答できなかったことは、1971年、ランチハンド作戦終結時に残存したおおよそ7千5000万リットルの枯葉剤の処分方法でかれらが困惑していた事態を反映している。公認されたバッキンガムの空軍史には、統制が取れない政府が、6年に及んで、次から次へとますます絶望的になっていく解決案を乱発したと、「深い井戸に投入、土壌で生分解、核実験用に掘られた穴に埋却、汚泥にして埋却、微生物を用いた影響の縮減、高温焼却」(25)などが記されている。最終的に、ミシシッピ州ガルフポートの住民がエージェント・オレンジの保有に抗議した後、1977年7月から9月にオランダ船籍のごみ焼却船「ヴァルカヌス」で洋上焼却された。

加えて、ギャレイの話は、基地の司令官たちが、命令系統のなかで、これらの化学薬品が健康に与える危険を伝達することに失敗していたという恐るべき事態を明らかにしている。

「ドラム缶は一カ所に集めておくようにと指示されました。上司の言い方はこうでした。『おまえが植物でなけりゃ、死なないよ』。それで、ドラム缶を取り扱う特別なフォークリフトの到着を待たなかったのです。その結果、移動の途中でドラム缶からこぼれた液体を浴びてしまった。エージェント・オレンジが腕と足とブーツにかかったのです」。

現在、ギャレイは、ケイト・ゴーツ同様、このときの被曝を原因とする症状に悩まされている。しかし、彼の申請はVAから却下され続けているのだ。


名護住民の体験:2011年11月4日
11月のはじめに、筆者は名護市で記者会見を開き、日本語メディアに対して調査の進行状況を報告し、同時に米軍の枯葉剤使用について住民から情報を集めることにした(26)。沖縄生物多様性ネットワーク(27)による周知の協力のほか、『沖縄タイムス』紙が1966年空軍文書を会見の日の朝刊で報道したことも手伝って、集会には多くの参加者があった。50名以上の地元の人びとが来場し(芥川賞作家の目取真俊氏の姿もあった(28))、沖縄防衛局の担当者、県議会議員の渡嘉敷喜代子、名護市議会議員も参加した。

9月に名護市は、エージェント・オレンジ使用について公的な調査を求める決議を行った沖縄最初の市町村となっていた。名護市議の不安が集まったのは、市内の海兵隊駐屯地キャンプ・シュワブ、すなわち、1970年から71年に元兵士のスコット・パートンが大量のエージェント・オレンが貯蔵され噴霧されていたのを目撃した場所である。

パートンによると:
「エージェント・オレンジの何十ものドラム缶が、多くが立ち入りを禁止された大きな亜鉛メッキ加工の倉庫に貯蔵されていた。なかにはオレンジの1本線が描かれたドラム缶があった。ほかは2本のオレンジ色の線だった。...なかには漏れている缶もあった。それで軍は、パレットの周囲に1フィート半(45センチメートル)の深さの溝を掘って、漏れ出した液体を溜めていた」。

パートンの主張は、基地内で枯葉剤の使用区域を目撃したことがあるという別の海兵隊員の同様の話で裏付けられた(29)。

会見で、この2人の元兵士の話を要約した後、地元住民にも体験談を語ってもらうようお願いした。住民の多くは特に、パートンの話で枯葉剤が用いられた場所が近くの湾に流れ込む用水路の土手だったことに戸惑いを隠せなかった。名護市議の大城敬人は、その場所を特定できたと考えている。それはかつて貝がよく捕れると親しまれた浜から近い場所だった。

名護住民の比嘉Sさんは、1970年代以前は、近くの浜の岩や海岸線は藻や海草で覆われていたのに、だんだんと生えてこなくなり、岩は漂白されたようになって一帯には生き物の気配もなくなってしまったと話した。

次に話してくれたのは島袋Fさんである。キャンプ・シュワブのカンノ兵舎(Camp Schwab’s Kanno barracks)で1962年から1972年まで家政婦として働いていた彼女は、備え付けの除草剤を噴霧していた沖縄人の軍雇用員の話を覚えている。そのうち何人かは、若いうちに癌で亡くなった。彼女の不安を、別の住民も繰り返した。この地区では何年ものあいだ、白血病にかかる人が非常に多いという(30)。

島袋もまた、比嘉と同様に海の生き物が汚染されているのではないかとの不安を語った。彼女は基地の近くの海で取れた貝を食べた後で亡くなった人たちのことを思い出した。「そのうちのひとりは、[シュワブ近くの]あたりで採れた貝は食べるなよと言い遺して亡くなった」。別の住民は、駐屯地の近くで採れたハマグリから黒いものが出てきた、米軍がエージェント・オレンジのことを「茶褐色で油のような液体で水に溶けない」と表現していたため怖くなったと語った(31)。

住民の不安は、市の北にひろがるジャングルにも向けられている。伊波Y[伊波義安]は、東村、すなわち、ちかごろ米政府高官が1960年から62年に枯葉剤の試験散布をしたと語った一帯の付近で、最近撮影された写真を示した。写真の土地は1990年代初期まで米軍に提供されていたが、返還されて20年経った今も、植物は生えてこないままである。

伊波は、沖縄ではどんな空き地でも4-5年経てば雑草が再び生い茂るもので、これは普通ではないと感じている。さらに、この一帯は2007年からメディアがダイオキシン汚染の疑いを報道しており、トカゲ、カメ、イノシシなどの奇形が報告されているとの懸念を付け加えた(32)。

記者会見の終盤で、中年の男性が近づいて来た。彼の父親は、1972年の日本への施政権返還前に、米軍から譲り受けた枯葉剤を使っていたと話した。その男性によると、枯葉剤は「油性で薄く、ガソリンとまぜるとうすい茶色だった。道ばたに噴霧していたのを見たが、効果はすごかった」という。

この男性の記憶によれば、数日のうちに「雑草は枯れてしまった。噴霧した液がかかった部分は、木の葉も黒くなった。この薬剤のせいで道の脇の大木の葉も落ちてしまった」。

彼も父親も噴霧の影響による病状はないが、薬品はエージェント・オレンジだったのではないかと疑っている。当時沖縄で使えた日本製の除草剤は水溶性で大木を枯らすような効果はなかったのだという。


結論:緊急の環境調査の必要
最近になって次々と出てくる沖縄の軍用枯葉剤に関する新情報は、警告を発するに充分な根拠となる。1970年代半ばに至ってもこれらの化学薬品が使用されていたという証拠、そして、沖縄の民間人の体験証言を考えれば、筆者が2011年9月の論文で指摘した以上に、人体と環境が支払わされる犠牲はいっそう深刻なものであろう。

エージェント・オレンジが貯蔵されていたと考えられる場所で環境調査が実施されなければ、沖縄住民や現在駐留する米軍兵士の不安を鎮めることは不可能だろう。筆者がインタビューしたダイオキシンに冒された元兵士たちは、エージェント・オレンジの健康上の危険性を充分に知り、正確な場所を特定するため無条件の協力を申し出ている。

南ヴェトナムの米軍基地跡地でダイオキシンのホットスポットを特定する作業を担当した科学者の座長をつとめるウェイン・ドゥウェニチェクは、調査によって、沖縄における枯葉剤の存在を確証できるか否定できるか、いずれかはっきりするだろうと語る。

「調査結果とダイオキシン類の異性体を調べれば、汚染がエージェント・オレンジによるものなのかどうか断定出来るだろう。エージェント・オレンジはダイオキシン類のうち、2,3,7,8-TCDDという特定のものだ。高い割合でこの化合物が見つかれば汚染はエージェント・オレンジによるものであることは疑いない」。

現時点で、ふたつの障壁が実施の阻害要因となっている。第1に、沖縄にはダイオキシンの試験設備がなく、1サンプルあたり1000ドルという金額は当局からの資金援助なしではあまりに高額である。

第2に、ペンタゴンと沖縄防衛局がこのような調査に消極的なことも障害となっている。地元市町村の調査を認める1973年の日米合同委員会合意があるにもかかわらず、11月11日、沖縄防衛局が名護市がキャンプ・シュワブの土壌調査を求めた際に拒否したのはその一例と言える。

ウェイン・ドゥウェニチェクいわく、このやっかいな態度は結局のところ当局に跳ね返るのだ。

「もし米国が落着を望んであいまいな言い逃れをやめれば、小規模のサンプル試験は認めるだろう。そうなったら要注意だ。かれらはなにを隠そうとしているのか?」

かつて、東京とワシントンは、保身に走り嵐をやり過ごそうとした。だが最近の展開を見れば、そのような選択肢は許されないだろう。沖縄の指導者たちは日米合作のエージェント・オレンジ隠蔽を、海兵隊普天間基地の辺野古への移設問題をめぐる不正義に結びつけて見ている。これから先の数週間、東京とワシントンが辺野古への新基地受入を迫ろうと沖縄への圧力を強めれば、同様に、枯葉剤調査を認めよとの圧力もまた強まることになるだろう。枯れ葉剤が半世紀以上にわたってこの島の土地を汚染してきたと、いまや多くの人びとが確信しているのである。


沖縄におけるエージェント・オレンジ使用に関して、元兵士と沖縄の住民の皆さんからの情報をお待ちしています。連絡はジョン・ミッチェルまで。
jon.w.mitchell@gmail.com
めまぐるしく展開するこの話題について、最新の状況は定期的に更新する次のサイトで確認されたい。
http://www.jonmitchellinjapan.com/agent-orange-on-okinawa.html
指導的役割を果たすオンライン・コミュニティ「エージェント・オレンジ・オキナワ」はジョー・シパラのFacebookにある。
http://www.facebook.com/pages/Agent-Orange-Okinawa/205895316098692

ジョン・ミッチェルはウェールズ生まれ、横浜を拠点に執筆活動中。ニューヨーク、カーティス・ブラウン社を代理人とする。沖縄の社会問題について広く日米の出版物で採り上げている。主たる著作については以下で見ることが出来る。 http://www.jonmitchellinjapan.com/
現在、東京工業大学で教鞭を執っている。

ポール・サットン、河村雅美、スナオ、O・N、カルロス・ギャレイ、ミシェル・ギャッツ、吉川秀樹の各位から、本論の執筆にあたって支援と助言をいただきました。記して感謝します。

出典表記:Jon Mitchell, 'Agent Orange on Okinawa - New Evidence,' The Asia-Pacific Journal Vol 9, Issue 48 No 1, November 28, 2011.


注記

(1) Jon Mitchell, “Military defoliants on Okinawa: Agent Orange”, The Asia-Pacific Journal, September 12, 2011.

(2)2011年10月、野田総理大臣は沖縄に閣僚を派遣し米海兵隊普天間飛行場の移設を辺野古への基地拡張にする道筋を付けようとした。この会談で、エージェント・オレンジ問題は地元の首長たちが東京[日本政府]に対して発した主たる苦情のひとつとなっていた。10月18日、北谷町、嘉手納町、沖縄市の3首長は玄葉光一郎外相と面談しこの問題に関して広域調査を求めた(日本語での詳細は以下を参照)[翻訳者注a]。「「公務中」理由公表を 軍転協・日米要請書」『琉球新報』2011年10月19日。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-182970-storytopic-111.html

2011年10月21日、北谷町長は斎藤勁官房副長官と面会し、枯葉剤の埋却について再確認を求めた。(日本語での詳細は以下を参照)[訳者注b]
http://mainichi.jp/area/okinawa/news/20111023rky00m010010000c.html

北谷町で何十缶ものドラム缶入りエージェント・オレンジが埋却されたという証言については、以下を参照。 Jon Mithcell, "Agent Orange buried on Okinawa, vet says: Ex-serviceman claims U.S. used, dumped Vietnam War defoliant," Japan Times, August 3, 2011.
http://www.japantimes.co.jp/text/nn20110813a1.html

(3)「軍転協「辺野古は不可能」外相・米大使らに訴え」『沖縄タイムス』2011年10月29日。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-10-29_25350/

(4)日本文は以下を参照[訳者注c]。「元高官証言『沖縄で枯れ葉剤散布』」『沖縄タイムス』2011年9月6日。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-09-06_23051/

(5)William A. Buckingham, Operation Ranch Hand - The air force and herbicides in Southeast Asia, 1961-1971, Office of Air Force History, Washington D.C., 1982, 16.

(6)アジャイル計画のうち、機密解除された文書のいくつかを次で確認できる。[訳者注d]
http://www.nal.usda.gov/speccoll/findaids/agentorange/text/00340.pdf

(7)1998年VA裁定の全文は以下で読むことが出来る。
http://www.va.gov/vetapp98/files1/9800877.txt

(8)このドキュメントのPDFデータは以下で取得可能。
http://www.jonmitchellinjapan.com/1966-air-force-visit-to-okinawa-herbicides.html

(9)Buckingham, 196.

(10)Quoted in “Agent Orange was likely used in Okinawa: U.S. vet board”, Kyodo News Service, July 8, 2007.
[訳者注e]

(11)VAはしばしばこの2009年の決定文書に沿って形式的な却下を行っている。「委員会は、元米兵が沖縄のいずれの場所においても除草剤に被曝したことを確証できない。沖縄において除草剤の事実上の証拠はない」。(この却下文の全文は以下で見ることができる。)
http://www.va.gov/vetapp09/files1/0903931.txt

(12)1966年、空軍はラオスと南北ヴェトナム国境間に枯れ葉剤の散布を開始した。散布域の拡大で、1966年には枯れ葉剤の補給が急務となり、米国ではほとんど除草剤不足状態だった。Buckingham, 133.

(13)沖縄の軍作業員への被曝に関するさらなる情報については、拙論文を参照。Jon Mitchell, 'US Military Defoliants on Okinawa: Agent Orange,' The Asia-Pacific Journal Vol 9, Issue 37 No 5, September 12, 2011.
http://www.japanfocus.org/-Jon-Mitchell/3601

(14)Philip Jones Griffiths, Agent Orange - ‘Collateral Damage in Viet Nam, Trolley Ltd., London, 2003, 165.

(15)Buckingham, 164.

(16)Griffiths, 169.

(17)“Employment of Riot Control Agents, Flame, Smoke, Antiplant Agents, and Personnel Detectors in Counterguerilla Operations,” Department of the Army Training Circular, April 1969.

(18)Buckingham, 188.

(19)赤帽作戦期間中のエージェント・オレンジ処分の疑いについては、拙論文を参照。Jon Mitchell, 'US Military Defoliants on Okinawa: Agent Orange,' The Asia-Pacific Journal Vol 9, Issue 37 No 5, September 12, 2011.
http://www.japanfocus.org/-Jon-Mitchell/3601

(20)モンタナのVAが行ったこのコメントに関する文書の入手の試みについては、現在、情報自由法に基づく公開請求で米国公文書館と長らく格闘中である。

(21)Jon Mitchell, “Beggars’ Belief: The Farmers’ Resistance Movement on Iejima Island, Okinawa”, The Asia-Pacific Journal, June 7, 2010.
http://www.japanfocus.org/-Jon-Mitchell/3370

(22)米軍が枯葉作戦, Okinawa Times, October 31, 1973.

(23)ゴーツの闘いについてより詳細な説明は以下で読むことができる。Jon Mitchell, "Okinawa vet blames cancer on defoliant: VA refuses aid amid Pentagon denial of Agent Orange at bases," Japan Times, Aug. 24, 2011.
http://www.japantimes.co.jp/text/nn20110824f1.html
[日本語訳は以下でどうぞ]http://www.projectdisagree.org/2011/08/jon-mitchell3.html

(24)ゴーツのブログ「スパロー・ウォーク」http://sparrowwalk.blogspot.com/

(25)Buckingham, 188.

(26)この記者会見について日本語で放送されたニュースレポートは次で見ることができる。枯れ葉剤問題で英ジャーナリストが報告 「退役軍人がシュワブで使用を証言」QABステーションQ2011年11月4日。
http://www.qab.co.jp/news/2011110431825.html

(27)もともとはCOP10に備えて結成された沖縄生物多様性市民ネットワークは、環境・平和・人権の相互関係を中心課題とするグループである。
http://www.bd.libre-okinawa.com/

(28)目取真俊は、沖縄における枯葉剤の真実を求める闘いへの関心を高めている。彼のblogでも記者会見の様子が報告されている。
http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/812687127772537104c646c63244a072

(29)パートンの証言の全文は以下で読むことが出来る。
Jon Mitchell, "Agent Orange revelations raise Futenma stakesToxic defoliant stored, possibly buried in camp slated as relocation site for contentious air base in Okinawa, ailing U.S. veteran claims," Japan Times, Oct. 18, 2011.
http://www.japantimes.co.jp/text/fl20111018zg.html
[日本語訳は以下でどうぞ]http://www.projectdisagree.org/2011/10/4_20.html

(30)2011年10月、日本における枯葉剤問題の権威であるヴェトナム戦場カメラマンの中村悟郎と面談した。彼によれば、日本で研究者がダイオキシン関連物質を特定する試みは困難を抱えているとのことだった。疾病対策予防センター(Centers for Disease Control and Prevention)の症例記録が傑出している米国とちがって、日本にはこのような体制が不在である。保健に関する記録調査のための情報源が集中管理されていないと、研究者が、出生児障害や特定の癌などダイオキシンの危険性が想定される症状の高い発生率を特定するのは殆ど不可能である。唯一の手段として、枯れ葉剤の使用が疑われる地域付近の病院を調査することなどが挙げられる。

(31)“Employment of Riot Control Agents, Flame, Smoke, Antiplant Agents, and Personnel Detectors in Counterguerilla Operations,” Department of the Army Training Circular, April 1969.

(32)たとえば以下を参照。「薬品影響?北部で奇形生物」『沖縄タイムス』2007年7月12日。[訳者注f]


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翻訳者注
[訳者注a]新報の軍転協の報道では、発言した市町村名などの詳細は書かれていない。
ところで外務省の「玄葉外務大臣の沖縄訪問(概要)」ページでは枯葉剤の話題が出たことについて全く触れられていないことを指摘しておく。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/g_gemba/okinawa1110.html

[訳者注b]リンク切れ。以下を参照されたい。正確には10月22日、官房副長官と野国昌春北谷町長ほか中部首長との会談でのことを指す。「官房副長官、嘉手納統合を否定 辺野古「厳しい状況」と認識」『琉球新報』2011年10月23日。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-183130-storytopic-3.html

[訳者注c]記事紙面はたとえば以下で確認できる。
http://takae.ti-da.net/e3712458.html

[訳者注d]文書は、米国農務省図書館のエージェント・オレンジに関する特別コレクション内にある。
Advanced Research Projects Agency, Project AGILE, R, "Semiannual Report, 1 July- 31 December 1963," found in Special Collections of the National Agricultural Library, The Alvin L. Young Colletion on Agent Orange, Series II. Military Use of Herbicides, 1950s- 1980s, File #340.  
http://www.nal.usda.gov/speccoll/findaids/agentorange/

[訳者注e]たとえば以下などで参照できる。"Agent Orange was likely used in Okinawa: U.S. vet board," Japan Times, July 9, 2007. 
http://www.japantimes.co.jp/text/nn20070709a1.html

[訳者注f]タイムス報道は多くの人びとがblogに転載するなどして大きな反響を呼んだが、現在リンク切れ。2007年の枯れ葉剤報道については次も参照されたい。
http://www.projectdisagree.org/2011/11/2007.html