元米兵が覆したエージェント・オレンジ否定論の封印>ジョン・ミッチェル枯葉剤報道第7弾
2012年4月15日
元米兵が覆したエージェント・オレンジ否定論の封印:沖縄の基地で有毒の枯葉剤を貯蔵していた、元米兵が語る
ジョン・ミッチェル
『ジャパン・タイムズ』への特別寄稿
[オリジナルの記事は以下。Jon Mithcell, "Okinawa Bases Stored Toxic Defoliant, Ex-soldier Says: U.S. Vet Pries Lid off Agent Orange Denials," Japan Times, April 15, 2012.]
画像はオリジナルの『ジャパンタイムズ』サイトでご覧下さい。以下にキャプションのみ訳しました。
(画像1 ラリー・カールソン)
(画像2 あまりに多くの苦痛:ラリー・カールソンが退役軍人省に送った様式には、1960年代沖縄でのエージェント・オレンジ被曝に由来する健康被害が列挙されている。提供、ラリー・カールソン)
(画像3 米陸軍の制服姿のカールソン。提供、ラリー・カールソン)
(画像4 ラリー・カールソンに補償を認定したことを示すVAの手紙。提供、ラリー・カールソン)
[翻訳者注:Webでは画像3と4が入れ替わっているようです。]
フロリダ州ジャクソンヴィル発---1965年と66年に、何千ものドラム缶のエージェント・オレンジが沖縄で積み降ろされ、那覇の港、米軍の嘉手納基地、キャンプ・シュワブに貯蔵されていたと、沖縄に駐留したアメリカ人退役兵が主張した。
4月初旬に、ジャパンタイムズと沖縄のテレビ局である琉球朝日放送が行ったインタビューで、元歩兵で67才ののラリー・カールソンは、また、沖縄の港湾作業員も貨物室で働いている際に非常に毒性の高い枯葉剤に被曝したと言い、嘉手納空軍基地で噴霧していたのも目撃したと語った。
カールソンは、沖縄で有毒の枯葉剤に被曝したことで米国政府から補償金を勝ち取ったわずか3名の米兵のうちのひとりであり、さらに一歩踏み出して、それらが大量にこの島に保管されていたことを明らかにした初めての人物となった。
彼の主張はその他の5人の米兵の証言と1966年米国政府文書によって裏付けられており、真実ならば、エージェント・オレンジは沖縄にかつて一度も貯蔵されたことはないと否定し続けるペンタゴンの主張の嘘を暴露するものとなるだろう。
「米国防省が調査したところ、(エージェント・)オレンジを南ベトナムに輸送する途上で沖縄に立ち寄った航空機や船の記録は発見されなかった」と在日米軍広報副部長のニール・フィッシャー少佐は、近頃、ジャパンタイムスに回答した。
だが、除草剤に被曝したカールソンへの補償金を認定した退役軍人省の裁定は、彼の発言の根拠となるだろう。
「私のことは氷山の一角に過ぎない。ほかにも大勢が私のように毒物を浴びたのに、VA(退役軍人省)が要求を退けている」、フロリダの自宅でのインタビューでカールソンは語った。「私はかれらに、しっかり足場を固めて踏ん張るようにと励ましているのです」。
米陸軍時代、カールソンは第44輸送部隊に所属し那覇軍港で1965年12月から67年4月まで任務に就いた。
「輸送船が(米国から)入港するたび、私たちはエージェント・オレンジのドラム缶を運んだのです。船から積荷を降ろすのにたっぷり12時間は働いた」と彼は言う。
「たびたび、トラックに降ろすときにドラム缶は漏れていた。私は少なくとも3度それを浴びたが、(貯蔵場所までドラム缶を)運んでいる間はどうすることもできず、兵舎へ戻るまで洗い流すこともできなかった」。
ヴェトナム戦期をもっとも彩った米商船、USSコメットとSSトランスグローブは、カールソンによれば、沖縄にエージェント・オレンジを輸送するために使われた。
平均して2ヶ月おきに輸送船は到着しており、なかでも1966年は最も頻繁だったと言う。
「苛烈な時だった。どこでも私たちの働き手を必要としており、何でも運んだし、そのなかにはエージェント・オレンジも含まれていた」とカールソンは語る。
積み降ろされた後、ドラム缶はいったん沖縄島に貯蔵され、そこから南ベトナムへ移送し、米軍は対ヴェト・コンの枯葉剤作戦のため大量のエージェント・オレンジをジャングルや耕作地に投下した。
ヴェトナム赤十字の推計では、戦後40年になる現在もなお300万人のヴェトナム人が除草剤に含まれていたダイオキシン被曝で苦しんでいる。
カールソンの主張は那覇港、嘉手納空軍基地、米海兵隊キャンプシュワブが今なおエージェント・オレンジのダイオキシン、すなわち土壌に何十年も残留し広範に及ぶ先天異常や死産、癌その他の疾病と関連してきた物質に汚染されているのではないか、という沖縄の不安をいっそうかき立てることになるだろう。
南ヴェトナムでは、米軍が駐留し除草剤を貯蔵していた土地は、今も高い毒性が残存している。
有毒枯葉剤が漏れ出したドラム缶の荷下ろしを地元の港湾作業員も補助していたというカールソンの証言を踏まえれば、沖縄の住民も自分たちの被曝の危険性について不安を感じているだろう。
1960年代半ば、おおよそ5万人の沖縄住民が米軍基地で雇用されていたのである。
カールソンはまた、嘉手納空軍基地で除草のため薬剤を噴霧していたのを目撃したことも覚えている。
「補給網がドラム缶10本ぶん(のエージェント・オレンジ)と要求すると、トラックがそこ(その基地)へ向かい、彼らの求めに応じて何でも積み降ろした。見栄えがよいようにと、フェンスの金網に噴霧作業をしている作業員がいた」と言う。
カールソンは、2005年になって初めて、ダイオキシンを含んだ枯葉剤を浴びたために病気にかかったのではないかと疑いを持った。
「壁に突き当たった。腎臓の調子がおかしかったのだが、パーキンソン病ではないかとの診断だった。その後、肺癌にかかり、左の肺の半分と右側の一部を摘出した」と言う。
カールソンはまた自分の被曝が子どもの健康にも影響したのではないか、遺伝的疾患の可能性を心配している。彼の娘たちはタラセミア(地中海貧血症)という非常にめずらしい遺伝性の血液疾患をかかえており、そのうちふたりは死産であった。
カールソンが2006年に初めて救済を申し出たとき、VAはその要求を却下した。ヴェトナム戦争の退役兵は、14種のダイオキシンに関連する疾病への補償を自動的に認められているが、ペンタゴンが沖縄におけるエージェント・オレンジの存在を否定しているため、カールソンの最初の申請は撃沈されたのである。
だが、彼は粘り強く補償を求める闘いを行い、那覇港で一緒に作業した従軍仲間の証言を5件集めた。証言は全て、大量の除草剤が港を通って輸送されたというカールソンの主張を裏付けた。かれらのうちふたりは、虚血性心臓疾患と前立腺癌を含むダイオキシンに関連する病気に罹っている。
カールソンはまた、1966年米空軍の文書を突き止めたが、そこには、民間の技術担当者が18日間の出張でフィリピン、台湾、沖縄を訪れ、海軍・空軍兵士たちに除草剤の安全な取り扱いについて指導したことが書かれていた。
カールソンのような歩兵は、しかし、こうした訓練を受けず何の防護具もなしにエージェント・オレンジを取り扱った。
「簡単でも講習会があったなら、汚染を免れることができた者もいただろう」とカールソンは語った。
この文書はカールソンの形勢に有利に展開した。
2010年7月、フロリダ州セント・ピーターズバーグのVA地方事務所は、彼に対して沖縄でのエージェント・オレンジ被曝を原因とする最高額の障害補償を認定した。
「肺癌・・・について提出されたあなたの要求は、VAの所有する情報と証拠で立証されたと裁定しました」と、事務所から彼が受け取った手紙には記されていた。
カールソンは現在、ダイオキシンの影響を抑制するために毎日飲む20種以上の薬代など医療費の支払いに充てるため、月に2千800ドル(約22万5千円)を受けている。
「手紙を受け取ったとき、自分は恵まれていると感じた。見えない手が決定を下す人物の心に触れてくれたおかげで、私の要望が認可されたと思った。VAには本当に感謝している」と彼は語った。
昨年中に、30名以上の元米兵が、『ジャパン・タイムズ』紙に対して、1961年から1975年に、沖縄にある15カ所におよぶ駐留米軍施設に配属されている間に、エージェント・オレンジ被曝したため病気になったと語っている。
米国政府の記録によれば、さらに130名の元米兵が、カールソンと同様の補償要求を申立てており、専門家によれば、被曝した者の数は何千人にも上る可能性があるという。
VAが補償要求を認めたのは他にあと2件だけである。
ひとつは1961年から1962年の間に沖縄で除草剤に被曝したため前立腺癌を発症した元海兵隊員で、彼は1998年に補償を認められた。
もうひとつは、別の海兵隊員の申立に関するもので、沖縄に駐留し、1970年代初頭に沖縄で、ヴェトナムから輸送されてきた汚染された機材を取り扱ったためにホジキンリンパ腫と2型糖尿病にかかったというものである。
NPO団体のヴェトナム戦争米退役軍人会でエージェント・オレンジ/ダイオキシン問題委員会の座長を務めたポール・サットンは、沖縄で除草剤被曝した元兵士すべてに対して、ペンタゴンが態度を軟化させ全面的な被害補償に向かうかどうかについて、疑問を呈している。
「米国政府は沖縄に駐留した退役兵の補償認可について、必死の抵抗を試みるだろう」とサットンは語る。
「そんなことをすれば、他国の政治国境線内に除草剤を保管しないという条約に違反したことになる。ワシントンはまた、沖縄での(エージェント・オレンジ)被曝認定を勝ち取るため一歩踏み出して闘う元兵士はそんなに沢山現れないだろうことに賭けているのだ」。