ジョン・ミッチェルさん、核配備問題で同日のジャパン・タイムズに掲載されたふたつめの文章。(※ひとつめはこちら)
原文は以下。
Jon Mitchell, "Okinawa, Nuclear Weapons and 'Japan's Special Psychological Problem' ," Japan Times, July 8, 2012.
2012年7月8日(日)
サンディ・タイムアウト
「沖縄、核兵器、そして『日本の特別な心理的問題』」
ジョン・ミッチェル
ジャパンタイムズへの特別寄稿
たぎる硫黄泉と黒いマグマの岩肌。東京よりも100キロ西に位置する箱根の温泉地が、1961年、日米の核に関する秘密会談にうってつけの黙示録的な風景を用意した。これは、ジョン・F・ケネディ大統領の国務長官ディーン・ラスクと、日本の小坂善太郎外相が出席した会談で、その当時まもなく沖縄に配備されることになる米空軍ミサイル班に影響を及ぼした。また広島・長崎への原爆投下からわずか16年後に行われる米国の核兵器配備をめぐる東京の姿勢を不穏なかたちで垣間見せるものとなった。
核兵器を搭載した米国のメース・ミサイルの問題は、11月4日箱根観光ホテルでラスクと会ったとき、最初に小坂が切り出した。アメリカは沖縄本島のボロ・ポイントに最初のメースを設置する最終仕上げの段階にあった、その事実を知らなかったのは明らかなようだが、日本の外相はラスクに、沖縄にサイルがあることは可能なかぎり秘密にするよう頼んだ。
「配備を発表すれば日本で激しい反発を生み、政府は国会質問で答弁を余儀なくされる」と、会談の公式記録にある。
ラスクは小坂の要求をワシントンの上層部に上げることを約束し、どうやらその約束は果たされた。沖縄の第498戦略ミサイル班の隊員だったビル・ホーンは、ロケットを防水布で覆い、搬送も夜間に限るなど、公衆の眼からミサイルを隠すために空軍が採用した方法のことを覚えている。また、隊員が基地の外の仕立て屋で、制服に付ける「戦略ミサイル班」(Tactical Missile Group) の文字を刺繍したパッチを注文したときのことも覚えていた。
「すぐに、ロバート・マクナマラ(ケネディの国防長官)がこのパッチを握りつぶしたのです。パッチは処分するよう言われました。私たちはただ「TMG」として知られ、この文字が何を意味しているのか誰も知らないものとされていました。しかしそれは茶番だった。私たちは目立たないように隠されていたのです」。
箱根メモとミサイル隊員の説明はワシントンー東京同盟の中心部にある深い緊張の存在を暗示している。日本の世論が圧倒的に反核であったとき、日本の指導者たちは、核兵器に対してせいぜい曖昧な態度を示すか、場合によっては明らかに核支持の側に立っていたのである。
戦後、米軍が主導した連合国による日本占領の間、アメリカ当局は、広島・長崎を取り上げたあらゆるメディアの議論を実質的に検閲した。しかし占領期間の終了に伴って1952年には、放射線障害に苦しみ続ける生存者の話題が噴出した。1954年、マーシャル諸島のビキニ環礁で行われた米国の水爆実験のため、太平洋でトロール漁船「第五福竜丸」の乗組員23名が放射線を浴びたとき、世論の怒りはさらに高まった。抗議のため、3千万人の日本人、すなわち人口の3分の1以上が、大気圏核実験の終結を求めて署名をした。
しかし、小坂が外相を務めた期間を含め、日本政府は代替わりしても、この選挙民感情を共有しなかった。この国をアジアの共産主義拡大の確実な防壁として留めておくためにCIAのドルが使われており、日本の指導者たちは、戦後の権力回復に躍起となった、そのために核兵器を掴まされたとしても、である。
じじつ、小坂がラスクと対面する前日、池田勇人---戦後日本の経済成長の父と呼ばれている---は、日本が自国の核兵器を保有するほうが良いのではないかと、国務長官に大声で問うている。池田は、日本の核配備を米国に秘密裡に求めることが、戦争を放棄した憲法への公然たる挑戦である点は、意に介さなかったようだ。ラスクは池田の要求を気まずいジョークで取り繕った上で、米国はいかなる核拡散にも反対していると説明した。
アメリカは自国の支配下にあった沖縄に核兵器を配備することには明らかに躊躇がなかったが、日本人の手にその引き金をゆだねる考えには不快感を示した。
日米関係の核問題で先頭に立つ研究者の新原昭治は、2001年メリーランドの米国公文書館で箱根メモを発見した人物である。「日本政府には非常に従属的な考え方がありました。高官たちは、核兵器は日米軍事同盟の守護者だと考えていたようです」と語った。
公衆に向けては反核の立場を維持しつつ、閉じた扉の奥では秘密裡に原爆を支持するという東京のふたつの顔は、11月4日の箱根で再び現れた。小坂は米国の太平洋上での大気圏核実験の再開計画について議論した。そのような実験が第五福竜丸事件(そして、一般には知られていないが、同じ時、850隻以上の日本の漁船にも被曝の可能性があった)の致命的な原因であったにもかかわらず、小坂は、日本政府は「軍事上の必要とあれば異論はない」と言っている。それどころか彼は、大気圏爆発が自国の反ソヴィエト感情の促進を押しとどめるのではないかと心配しているようだった。メモにはラスクの応答がはっきりと記録されていた。「米国は日本の特別な心理的問題については、理解し配慮する」。
何にもまして、これは日米の核関係の問題の核心に切り込む言葉である。日本のトラウマの根源が米国にあることを理解できなかったラスクの失態は、公衆に対して面目を保つため米国の核政策については知らぬ存ぜぬを演じ続けた日本政府の無神経な偽善的ふるまいとこそ、比類すべきものである。
「日本政府は、沖縄の人々に対して責任を負うことを避けるため、沖縄における核の存在を公式に認めたくなかった。この種の考え方が、反戦意識を持つ普通の日本人大衆との間に大きな亀裂を生んだのです」と新原は語る。
1960年代を通して、日米政府はどちらも沖縄に核兵器があることを認めなかった。新原の調査によれば、1971年になってはじめて、この島の返還について両国が交渉する際に、アメリカはついにその存在を公的に認めた。なぜ急に正直になったのだろうか。ワシントンは東京に対して、兵器撤去のための数千万ドルを拠出させたかったからだ。
1971年、景気の低迷する米国と、経済活況にある日本において、冷戦期の機密保持の要請をしのぐ火急の優先事項は、冷たく硬質の現金ということだろう。