昨日、報道について多くの友人たちが最初の報道としてNHKのものをピックアップし「拡散」に利用していた。そのテクストは時間を追って少しだけ修正されたが、しかし、NHKのあまりにも見え透いた矮小化力学が、多くの友人たちの怒りをかっていた。ここでは3点だけ論点を挙げてみたい。
まず、警察発表は「集団女性暴行致傷容疑」だったにもかかわらず「乱暴してけがをさせた」「兵士2人から襲われ、首にけがを負っている」などの言い替えが目に付いた。Webで速報を出したタイムスは、当初から警察発表の言葉を使用していたが、一夜明けた17日には「性的暴行を加え」と明確に書いている。英語メディアは当然 "rape" という語を使用している。
つぎに沖縄で米軍兵士によって引き起こされてきた事件事故数を呆れるほど少ない数字で追記していた。
「沖縄県内では、沖縄が日本に復帰した昭和47年以降、これまでにアメリカ軍の兵士が女性を乱暴したとして逮捕された事件が7件起きています。」
県内両紙はそれに対する対抗情報として、1995年以降の重大な犯罪について列挙してみせている〔タイムスは政治面、新報は社会面で)。
そして、被害者の人権とプライバシーがいかに守られるかは、これからのマスメディア、インディーズ系メディア、そしてネットで拡散するチカラを持つ諸個人の倫理に賭けられているが、それとは少し視角を違えて、被害者とはどのように表象されるのか、という問題がある。日本のマスコミは、被害者に形容詞を付けなければ気が済まないのか。NHKは「日本人女性」とした。タイムス、新報は見出しで「女性」との語を選んでいる。記事本文になると「日本人」「成人」などの形容詞が付されていることが判る。英字報道は "a woman" "a local woman" などだった。被害者はなぜ、なにかに形容されなければ被害者として理解されないのだろうか。人は被害の軽重や被害への関心を、その形容詞によって峻別するのだろうか。そのようなことを考えた。
まず、琉球新報の1面と、社会面。
つぎに、タイムスの1面と社会面