今日、連邦地裁が工事差止め請求を棄却した、その直後に司法省、内務省、陸軍省(今回のケースに直接関係している)が、工事許可を撤回し、必要な調査を経るまで工事を差し止めると共同声明を発表した。
数日前には会社が雇った民間警備員からペッパースプレーと犬をけしかけられ、今日も今日とて道路沿いをナショナル・ガードに警戒監視されながら、「冷静に」「祈りとともに」、権力の側があざとく期待しているようではない私たちの行動を、と呼びかけ、大きな転換点をみんなで乗り越えようと頑張っていた、そのような中で駆け巡った「オバマ政権が工事を差し止めた」のニュース。いくつか上がっていた当事者たちのコメントは「まだ終わっていない。完全阻止まで闘いはこれから」というものだった。
日本語で読める、昨日までの背景をまとめたものとして以下ふたつ上げておきます。
●デモクラシーナウ・ジャパン2016年9月6日。
●「パイプライン建設に先住民が抗議の座り込み 環境正義問題へと発展」『気候変動の向こう側』blog2016年9月6日。
画像の美しいポスターはお馴染みシルクスクリーン集団justseedsから。
http://justseeds.org/graphic/solidarity-with-standing-rock/
他にも、沢山の人びとが、結節点を沢山つくってキャンペーンを工夫しながら展開している様子が伺えます。
みんな頑張ってるんだ。まだまだ、これからなんだ。よーし。
と、思った。
遠くの可哀想なことだ、と眺めるだけの立ち位置からは、あっちのほうが酷い、こっちはまだまし、あっちは羨ましい、こっちはどうして、などというコメントしか生まれてこないかもしれない。
でも、報道のなかに映し出された、ブルドーザに対峙するかれらの姿は、私たちと同じ経験を直観させるものだ。我が身に引き比べて苦境や悲惨に優劣を付けるのではなく、理解を共有できるという歓びのほうが大事だと思った。なぜなら私たちは、ここから、「高江も辺野古も沖縄も頑張ってるよー」と、あそこに声を返すことが出来るのだ。救済の手を差し伸べる優越ではなく、共に闘いの地に並び立っている。
運動を横に開いていく。それはとても重要だけれども、まだ充分に説明されていない。高江の座り込みから台湾のタオ族とのドキュメンタリ映画を通じた交流のなかで、仲村渠さんが次のように書いていたのを思い出した。
「やはり南に視線を放つ視座と思考の回廊は、日本ー沖縄の非対称な関係の近現代を貫く時間の中で植民地主義に取り込まれて、一つ身に被害加害が渾然と織り込まれた沖縄人が南方の他者を呼び込み、思い入れの沖縄アイデンティティを鎧う殻を内破して、アジア民衆に開いて行くために必要だと思う。」仲村渠政彦「高江にすわる」『けーし風』第90号(2016年4月)。
私たちは運動という視座と思考の回廊で、つながりを横に開き、そして縦にもつなげて行きたい。ここで縦とは、上意下達のタテ社会のことではなく、時間軸という意味で使ってみた。過去の運動の知恵に学んだことを今日に活かす、それが将来への継承になる、というようなことを考えてみたいからだ。
戒厳令で道路と山を封鎖され抗議がごうごうと渦巻くなかを、「日常生活が滞った」として迷惑に思う人びとの声が、抗議者たちに責任を負わせるように報道されている新聞記事を読んだ。
「迷惑だ」。
デモやストをめぐって街頭の声としていつも報道される言葉だ。この種の報道に出会うたび、普通の住民はこういう風に考えるものだという「ものさし」を押し付けられているようだと思う。「迷惑」とコメントする風潮は、メディアが繰り返し報道することによって作り上げてきた枠型だと思う。メディアはそういう「普通の人びとの声」を待ち構えていて、ちょっとでもその雰囲気を嗅ぎ付ければ「それきた!」とばかりに取り上げる。普通の人は反対しても抗議行動にまでは至らない。デモンストレーションのほうが迷惑だと感じるものだという前提で取材するのだ。つまり、「迷惑」という言い方が権力に向かわないのは、そもそも「迷惑」という言葉は、メディアが、抗議する人に責任を方向付ける言葉だからだと思う。
そのように理解した上で、事態を傍観することもできないやんばるの集落から「迷惑」という声を取り上げるのはとても残酷ではないだろうか。結果として、日本政府を大いに満足させたに違いないと思うとなおさら悔しい。ただ、メディア批判だけで終わらせればすむことでもないとも思う。
そこで、横に開く、縦につなげる、を多くの参加者に考えてもらいたい。
闘いを世界に横に開いてみれば、座り込み、キャンプを連ねる沖縄の闘いは、多くの人びとの賛同を得られるものだとすぐに判る。権力者を通さない道路封鎖なんてもはや世界標準。そして、沖縄のほんの少し前を振り返れば、抗議が迷惑ではない事例は枚挙に暇がない。
31日国頭村での実弾演習は国頭村民を中心とする約七百人の阻止行動にあい、米軍は一発の空砲もうたずに運び込んだばかりの兵器や資材をヘリコプターで運び去り、演習は文字通り不発に終わった。・・・[中略]・・・31日、国頭村の各部落には夜明け前の午前五時から六時にかけて戦いのサイレンや鐘が鳴り響いた。冷たい小雨まじりの北風が吹きすさむなか、雨ガッパ、長ぐつで身をかためた婦人や男たちが弁当片手に公民館へ。集まった人たちはほとんど無言のまま、顔をこわばらせ、戦う以外にないといった思いつめた表情。楚洲では、午前六時から小中学校の生徒たちが公民館前広場に集まり新城正紀君(中二)の司会のもと、二十七人の中学生が「部落全体で阻止するというよいことだから僕たちも参加させてほしい」と訴えて参加した。仲宗根記者「緊張で明けた71年」『沖縄タイムス』1971年1月3日。
1970年大晦日から正月を、演習場の発射地点と着弾地点に別れてキャンプし、実弾演習を阻止した伊部岳闘争の様子を、沖縄タイムスは上記のように報道していた。子供だって子供コンヴァージェンスで話し合って行動を決めてたんだぜ。阻止するというのは「よいこと」だったんだぜ。
画像左の写真は、写真家の大城弘明さんが捉えた当時の一コマ。「阻止闘争に参加した安田や楚洲の中学生たち1970年12月31日」というキャプションが添えられていて、タイムス仲宗根記者のレポートの内容と呼応していることが判る(大城弘明さんの写真集は出版されているので、他の記録も含めぜひ手に取って見て下さい)。
写真が青いのは、辺野古の座り込みテントに展示されていたものだから。写真がブルーシートを通した陰影に染まっている。辺野古でも、高江でも、座り込む沖縄のある年齢層の人びとは、伊部岳闘争のことを想いながら21世紀の座り込みを闘っていることが判る。その人びとは今回のヘリコプターによる資材搬入を、どのような気持ちで睨み据えただろうか。その想いを、座り込みの現場を通して次の世代にぜひとも継承して欲しいし、改めて、過去の力を借りて、地域のコミュニティにも開いて欲しいと願う。
もうひとつの今日に召還したい大切な過去は、CTS闘争のときの「援農」のジンブンだろう。交通渋滞に一緒に巻き込まれた生産者たちを前にして、私たちは、抗議は正義で当然のことだという鉄面皮の空気、鎧を身にまとっていないだろうか。暮らしを守る闘いは、こんなにも長期化して、事実として暮らしを壊しているというのに。
金武湾を守る会は「海と大地と共同の力」がキャッチコピーだった。多分、「闘いのために暮らしを壊すのは本末転倒」と考えていた、この守る会に集った人たちは、農家を支える「援農」にも取り組んでいた。その時のジンブンを今日の高江に呼び戻せないものだろうかと思う。砕石のダンプを止め機動隊に掴まれ仲間を取り返しに行くのと同じ勇気と情熱で、農家の通行優先を叫び、種を蒔くのを手伝い、「一緒に反対しよう、スタンディングロック・スーもすごい頑張ってるって。水は私たちの命だからって。本当やね」と語り合う援農を、ここはひとつ、内地から駆け付けているパワフルな皆さんに提案したいと思う。
どうだろう。
まだまだ、これからじゃない?